Body Arts Laboratoryreport

身体・メディア・主体

山崎:アメリカのポートランドでTBAフェスティバルというのがあります。Time-Based Art で TBA 。ダンス、演劇、ビジュアルアートなどの時間芸術を扱うフェスティバルなんですが、フェスティバルとなったときに、一定の期間と場所が限定される。それを超える、フェスティバルを拡張できるようなものは何かないだろうか? それからTBAもそうなんですが、ダンス、ボディベースアートとビジュアルアートがすごく近い状態になっていて、一緒になってるような現状がある。それについてはどうですか?

田坂恵比寿映像祭では映像という名前がついていますが、ダンサーとアーティストがコラボレーションするプロジェクトも過去に企画しています。スタッフにはディレクターがいて、キュレーターと映画のプログラマーとチームを組んでやっているのですが、F/T と同じように基本的にはディレクターに全部決定権があります。ただ、かなりの部分で議論をして決めていくというプロセスがあって、その過程でいろいろな人が入っている。ジャンルの横断をしている部分はありますが、どこまでクロスオーバーが起きているかについては、具体的な部分でしか言えない。やはり、何をして映像か、何をしてダンスかという議論がなされるべきであって、あるパフォーマンス自体が映像を喚起させるとか、ダンスを取り込むことでいろんなアイデアが生まれていく可能性がある。

田村:映像とボディということでいえば、昨年ボディビルダーの方と関わって作品をつくりました。ボディビルディングの身体の鍛え方というのは、今日はここの筋肉、明日はここの筋肉というように、トータルバランスではなく部位ごとに考えている。そこがすごく面白いなと思って、それは断片を編集していくような作業かなあと僕は思ったりした。それで映像の編集にすごく繋がるところがあるんじゃないかと思って、2か月の展示をしました。展示空間がトレーニング場になっていて、週3回ボディビルダーの人が来てマンツーマンでトレーニングする。トレーニンングをしながら映像を編集する。僕の体はその2か月で変わっていったんですが、自分の体を変えながら編集することができないかという試みとしてやっていた。
その展示をした時に、ボディビル連盟の会長にインタビューをしに行って、面白い話を聞きました。日本で最初にボディビルディングを紹介した方で、三島由紀夫のトレーナーも務めていたその会長さんが、戦後何で日本がアメリカに憧れたかみたいな話をしていて、それは新聞やテレビ、ラジオがメディアとしてプロパガンダを放送したからだとか言われるけどそうじゃないんだと。進駐軍が来た時に彼等の体つきを見て僕はもう一発でアメリカの文化に浸透したんだということを言っていた。アメリカが進駐して、基地をつくる時にその中にジムを必ずつくる。それでアメリカ軍の兵士がそこで体を鍛えて街に出て歩く。パリッとしたズボンとスマイルとその鍛えられた体が、1945年の戦後に街を闊歩している。それだけでもうプロパガンダなんだ、メッセージなんだと言ってるのが、すごく心に残った。身体がメディアになるんだと。

中馬:日本語に「やらせていただく」という言葉がある。単に「やるんですよ」とか「やってるんですよ」ではなくて「やらせて」「いただく」。言葉としてとても複雑。日本の文化やシステムを考えた時に、何かに乗っかっての組織だと思うから、それでは絶対うまくいかないと思う。私自身は中東、パレスチナと45か国ぐらい行っていて一概に西洋がということもない。ディスカッションの中で何回か出てきているが、西洋が、ジャドソンが、ナイン・イブニングズ[*1]がとか、言葉が腐敗してきているように思う。世界の動向は凄く変わってきていて、経済にしても原発のことにしても10年単位で考えなければダメだと思います。

田坂:日本の組織に関しては、仰るとおりだと思います。ただ、その人たちを啓蒙するというか、いやいや、こういうことなんですよということをやるべきであって、“OK, Let’s do it.”だけだとまずい。スルーされちゃったりする。だから大声を上げて「やらせていただく」と言いつつも、事を進めなければならないときがある。そうしなければ何も実現できなくなることがたくさんあるのではないかと思います。

武田:アーティストが「やらせていただく」と言う必要はないのですが、プログラム・ディレクターの職能として、言葉を使い分けることはひとつの仕事としてありえると思います。そうした他者や組織のあり方自体を変えていくということも含めて、振る舞いを変えていくことは仕事の内に入っていると思っています。

武藤:「やらせていただく」という言葉は要するに、誰が誰に許可するということもないのに、とりあえずそう言っておけば下手に回れる、便利なフレーズなんだと思います。それがある意味無責任な社会をつくる面もある。田坂さんの仰るように、そうしないと話が通じないから、そうと分かった上で使うということがある。しかしそういう無責任的な背景があるとした時には、頭ごなしに「個人が主体の単位の前提である」と言うべきではないんじゃないか。そういう言葉がある現実があった時に、なぜ「やらせていただく」と言わないといけないのか、それこそがリアリティであって、その深層でどういうコミュニケーションが実は行われているのか、それを見ることが“身体を見る”ことなんじゃないかと思う。意識的/無意識的にやっていることのあらゆる出来事を可能にする条件のことを“身体”といえるとすると、「やらせていただく」を否定するのではなくてきちんと考えることが、自分たちの身体について考えるということなのではないか。それは場合によったら日本的なのかもしれないし、アジア的なのかもしれない、何だかよく分からないカテゴリーなのかもしれない。そういうところを見ていきたい。どういう前提でどういうことを語れるのか、それを考えていきたい。
ウェン・ウェア・フェスも最初は、身体について考えることで活動の地盤を問題にしていると思っていたが、やっぱりニューヨークに引っ張られているのではないか? ニューヨークにあるものがなぜ日本にないのかと問うてしまうと、日本の状況そのものを考えられなくなってしまう。だから、日本で起きていることのどこに問題があって、どこが可能性の入り口なのかと問わなければいけない。そうしないと、いつまでたってもニューヨークのものを輸入できないなあと言い続けることになってしまう。これはアジア全体の問題で、みんなそこで足踏みしてるんじゃないかと思う。

  1. ナイン・イブニングズ 9 Evenings: Theatre & EngineeringBack1966年ニューヨークのアーモリーで行なわれた E.A.T.(Experiments in Art and Technology)の代表的プロジェクト。ロバート・ラウシェンバーグ、ジョン・ケージ、イヴォンヌ・レイナーなど10名のアーティストが技術者と協働してイベントを行なった。広大なスペースや当時最新の技術の使用はアーティストのアイデアにとって可能性を大きく展開させる試みとなった。