Body Arts Laboratoryreport

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and then to
Phyms(作品制作・出演:SKANK/スカンク、高橋由佳、横山八枝子、吉田拓)

Phyms
《and then to》
Photo:
Naoyuki Sakai

3人のダンサーと1人の音楽家によるきわめてミニマルなダンス作品である。最小限の身振りと音の関係は、ポストモダンダンスの美学との共通点をはっきりと見出すことができる。ただしイヴォンヌ・レイナーの「No マニフェスト」において表明したような禁欲的なアンチスペクタクルの傾向がみられるわけではなく、抑制された身振りと音の関係の中には遊戯的な印象が併存していた。徐々にいわゆるダンスへといたるかもしれない期待と変わりゆくタスクの中で簡単に期待が成就しない緊張感を楽しむことができたように思われる。プロジェクト全体の中では特異な美学を提示しているがゆえに、ポストモダンダンスの現代における美学的可能性を考え直すきっかけとなった。


スキゾダンス

山崎広太
《スキゾダンス》
Photo:
Naoyuki Sakai

山崎広太のソロである《スキゾダンス》であるが、彼はフェスティバル会期中に見舞われた不慮の事故によって負傷し従前のように踊ることのできない身体で登場した。しかしながら決して悲壮感が場を支配していたわけではなかった。彼はけがをかばいつつも自らのダンスを構成する原理を語り始めるのである。哲学者ジル・ドゥルーズの『差異と反復』や『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』等を強く連想させる思弁的観察や、ウィリアム・フォーサイスによるキネスフェアの多重化への言及など、様々な連想を呼ぶテクストを通じて身体操作が重ねられる。彼は上半身を範例的に動かしていくことで実演していく。彼はまた身体と文化的記憶の関係をレクチャーのように語って示すことで、きわめて実験的なダンスの身体が位置づけられる舞踊史へのパースペクティブをみせる。彼のダンスが持つ射程を観客は説得力を持って確認していくのだが、しかしながら彼の身体は言語的コメントに従属しているだけではなく、言語に先行したりあるいはそれとは関係なく動いたりする。

このパフォーマンスは言語とダンサーの関係で言えば、レクチャー・パフォーマンスとしてみなせるかもしれない。90年代以降のドイツ語圏でとりわけ台頭してきたダンスの新たな形式は、「言うことと(das Sagen)」身体で示すこと「(das Zeigen)」のずれが示される特徴があった[*1]。つまり演劇的な仕組みを用いてダンスを開いていくことに特徴があるが、山崎の《スキゾダンス》はそのようなコンセプチュアルな距離が言語と身体の間で常に開いていたわけではない。彼のダンスに関する複層的な理論は常に分裂を志向し、統一的な身体からの逸脱をもたらそうとする。その理論を再現するダンスは、身体像の分裂をまさしく理論通りに示そうとするのであり、その分裂は言語の先を行くようにして展開していく。したがって《スキゾダンス》は言うことと示すことの裂け目を示すというよりは、示すことが言うことを越えていくことで理論を内破することを示すのである。彼が踊れなくなったことで語ることを選択したことは、単なる補助的な手段ではなく言語と身体の関係を独自の方法で示したといえる。


ダサカッコワルイ・ダンス[*2]
出演:白神ももこ、大塚郁実、鶴家一仁、山野邉明香、宮脇有紀、阿目虎南、横山彰乃、Aokid、企画:山崎広太

《ダサカッコワルイ・
ダンス》
Photo:
Naoyuki Sakai

前回のWWFesでも上演されたダンスである。8名のダンサーが会場全体に広がる事物を即興的に用いながらパフォーマンスを展開していく。このダンス・パフォーマンスの振付的原理は常に事物と戯れることであり、その原理に基づいて踊り続けるのである。個々の瞬間的な選択やコンタクトは確かに即興的パフォーマンスの醍醐味である。他方で事物と戯れ続けることの選択は舞台上に一枚画を形成しないのであり、その散漫さはダンスが「画のように決まる」ことを期待してしまうことの対極にある。ただ、この散漫さはダンス・パフォーマンスの失敗を意味しない。むしろ「画のように決まる」ことの期待を裏切っていく「ダサカッコワルイ」美学が展開されているのである。事物はミニマリズムのような素材としての物質ではなく、テントやマイクなど意味や機能をもつありふれた道具たちである。ダンサーたちがパフォーマンスを続ける中で徐々に疲弊していくのと同様に事物は転がされるように使いまわされる。事物は適切な位置や使用方法をはがされていくが、その代わりに新たな意味を獲得するわけではない。身体と事物の疲弊という状況が散漫さとしての「ダサカッコワルイ」美学を生み出していくのだが、これは同時に観客の視線に画が現れないというメランコリーの印象へと繋がっていく[*3]。通常ダンスとして期待するような視覚的対象を失う代わりに、自らがダンスへと投げかける視線に自覚的になる。その意味で、エネルギーに満ち溢れたダンス・パフォーマンスであるものの不在の美学を備えているといえるだろう。


rendance

《rendance》
Photo:
Naoyuki Sakai

フェスティバルの最後に行われたダンスで、WWFes恒例の企画となっている。今年は約30名の参加者が集い、個々人のスピーチも含めたそれぞれのタスクを行う3人が舞台に上がり入れ替わっていく。いわばエンドロールのようなパフォーマンスであるが、様々な立場や世代の参加者が入交り語りやパフォーマンスなど同じタスクを共有することで、各々の個性さらにいえばある種のアイデンティティがその連鎖の中で浮かび上がってくる。フェスティバルの最後を締めくくるパフォーマンスを見届けるために観客たちの歓迎的なムードの中で進行していくが、最後に登場した伊藤キムの圧巻のパフォーマンスによって大団円を迎えたといってよいだろう。


リサーチ・ワークショップ


たくみちゃんのインプロヴィゼーション・メソッドワークショップ in芝浦〈find, sound fun 運動〉

たくみちゃんの
インプロ
ヴィゼーション・
メソッド
ワークショップ
in芝浦
Photo: BAL

このプログラムはパフォーマーであるたくみちゃんが継続的に主催しているワークショップを実演での発表を含めて行ったものである。このワークショップはプロフェッショナル向けではなく、ダンスや演劇、アートの経験を不問にしている。終演後に行われたトークでのたくみちゃん自身の簡単な説明や壁に張り出されたタスクの一覧からのみインプロヴィゼーションのメソッドを知ることしかできないが、実演されたパフォーマンスそれ自体を通じてたくみちゃんがインプロヴィゼーションをどのように捉えているか、それがパフォーマーとなった参加者がどのように受け取っているかが分かった。実演においてあるダンステクニックを習得した個々人がダンスを披露していたわけではない。したがって、このワークショップにおけるインプロヴィゼーションとは、ダンスにおいて想定されるような即座の判断やタスクに反応して起こる身体運動の創出を目的としてないことは一目瞭然であった。むしろ実演において顕著であったのは、環境に対して働きかけ続けるようなアイデアを個々人が実現することであった。

例えば、大きな植木鉢を移動させる、観客席から少しずつ椅子を引いて現れる、床や天井部分にひかれた線を上演に居合わせる人々となぞるなど。空間の中にあるものを動かすこともあれば、観客とパフォーマーの役割を越えて上演空間を広げるように動いていくことが様々なタスクを通じて行われていった。環境に対する働きかけとは、身体を使って観客も含めた身の回りの空間を動かし続けることであり、これはダンスが通常空間の中で自らが動くこととして了解されていることとは対極にあるといえるだろう。動かす対象に自らの進退を含めるのであれば、自らが動くことも動かすことの中に含まれる。それゆえに周囲の空間を動かすために自分自身の身体を動かして行為する、すなわち自らが動くことが達成される。このように考えるとき、たくみちゃんにおけるインプロヴィゼーションとは、具体的な身体運動のメソッドではなく、周囲の環境を動かすために使用される身体を出現させるためのコンセプトであるといえる。観客がパフォーマーとタスクを共有しながら動かされることが多いことで、このようなメソッドを体験することができた。

(上演に向けた過程でメソッドを教えつつパフォーマーになるために指示をする中でたくみちゃんがどのようなコミュニケーションを取っていたのかについて非常に興味を持った。教えつつ託すことを両立しなければ成立しないメソッドだと思ったからである。)


小さく街をあるく、つくる〈港区、東京タワーこんにちわー編〉

Aokid ほか
小さく街を
あるく、つくる
Photo: BAL

ダンサーのAokidが主宰するワークショップで、前回のWWFesにおいても同様の趣旨のワークインプログレスの共同制作企画があった。今年は、発表のための参加者を8名募り実際に街歩きや勉強会などのリサーチを行い、その過程をオンラインで公開し、パフォーマンスによって成果発表を行った。街歩きという方法からすぐに思い出されるのはシチュアシオニスト、ギー・ドゥボールらによる漂流[*4]であり、都市の生理学を発見するというかつての実践と非常に近いといえるだろう。さらに今年は共同リサーチャーに演劇学研究者の石見舟およびアーティストの斎藤英理が参加しており、風景というテーマが加わっている。彼の指摘する風景とは単なる写真的な経験と異なり、眼前に広がる対象を風景として見出す過程が求められる。この再発見という過程は必ずしも観察者の恣意的営みでもないとされ、この意味で風景の経験とは演劇性の経験と近づく。石見によれば風景の経験には歴史哲学的射程も含まれるのであり[*5]、今年の企画ではドゥボールらの実践と近づきながらもそこで前景化してこなかった歴史性というパースペクティブが加わることになる。

パフォーマンスは街歩きの参加者とAokidたちによって行われた。港区には各国の大使館が多いことに着目し、それらの国旗を描いた紙が会場に広げられていく。それに加えて窓から外へと向かっていく動作やレクチャーを叫び続けるなど、多くのことが同時に起こっている。パフォーマーの行為が他のパフォーマーに干渉したり、あるいは離れた場所で全く違うことを行ったり、国旗の展開がひとつの中心であるものの、上演空間に強いパースペクティブは見出されず常に互いが衝突するのである。そこでひとつの身体や言語テクストあるいはイメージが象徴化するのではなく、つねにほかの要素と接し続けることで意味を変えていく。街歩きの成果として、身体を通じて獲得した都市のある側面を象徴的に示すのでもなく、港区の地形をあるパースペクティブから再現しようとするのでもない。ここで試みられているのは、都市が複数の潜在的可能性によって構成されていることを、異質な要素の衝突そのものによって示そうとすることである。これらの異質な要素たちは街歩きの痕跡でもあるために、観客はこのパフォーマンスを港区という都市が持つ潜在的可能性から描かれる地図として経験することができるのである。ここで関与してくる歴史性は恐らく、風景を構成する要素としての文化として考えられるのであろう。今後の企画において、街歩きを通じて歴史性というテーマを開いていくことを期待している。


盆踊りアラウンドネス

盆踊り
アラウンドネス
Photo
Naoyuki Sakai

「トライアングル・プロジェクト」と並んで今年のWWFesの根幹をなすプロジェクトが「盆踊りアラウンドネス」である。フェスティバルに先立ってリサーチ過程はオンラインで公開されている。踊りという営みは芸術的領域にあるばかりではなく、様々な領域に見出されるために、普遍的営みであるといえよう。それゆえに今回のプロジェクトに盆踊りが加わるということは、地域の実態に根差した舞踊を包摂していくことと捉えられよう。しかしながら「盆踊りアラウンドネス」が結果的に示したのは踊りという営みのうちにある差異の接触である。このような差異を考えることには当然ながら慎重にならなければいけない。というのも、例えば踊りという営みにおいて中心的権威として芸術という領域があり、その中心を支えるための制度および言説があるのだとして、舞踊の普遍的実態に即して反権威的方法として周縁に位置づけられる踊りを「発見」していくことは、その意図とは裏腹に(極めて強い言い方をすれば)周縁化された踊りを植民地にしているに過ぎないといえる。今回の企画では盆踊りという地域共同体のための踊りと芸術的な営みとしての盆踊りのリサーチと創作そして実演が併存していた。ここで重要なのは、この関係があることで初めて盆踊りについてもともとの目的とは異なる観点から考えることができるということである。したがってその思考を促す役割を担う限りにおいて、芸術的な営みとしての踊りとは権威ではなく、様々な領域をテーマとして現れる後発的な立場に立っているといえる。

シバウラハウスの1階の全面を駆使して、会場にいる参加者全員で盆踊りは開催された。港区で盆踊りの活動をする方々の小さな円を囲むようにして大きな円を描く。外側の円にいる参加者たちは中心で踊る人たちの踊りを見よう見まねで踊っていくことになる。よく知られた楽曲から港区のために作られた新しい楽曲、そして西村未奈によって振り付けられた盆踊りなどがありそれぞれの音楽やリズム、振付の違いは顕著であり戸惑うことも多かった。近年では東京における盆踊りは注目されており、祝祭的な空間での踊りを楽しむことが増えてきたが、ここでも会場の一体感は醸成されており、他の盆踊りイベント同様の高揚感があったように思われる。しかし演目の最後に位置づけられた西村の踊りの異質さがあることで、盆踊りイベントを再演して経験するだけに留まらない、リサーチ結果の身体的経験という側面があった。

踊りのあとで、人と地域を元気にする盆踊り実行委員会主宰の北島由記子さんおよび港区の霞町盆踊りコソ練部の方々、西村、新作で作曲を担当した高木生、および盆踊りの有識者として田中瑞穂さんと大石始さんを交えて、ダンス批評家の武藤大祐さんを司会にトークが行われた。盆踊りの歴史や踊りの特徴、および港区における盆踊りの現状が語られた。実は我々は盆踊りについて知っていることは少なく、多くのことを知るいい機会ではあった。しかしながら、西村と港区の方々との間で彼女の振付に対してどのように語ることができるか、それを通じてそれぞれの踊りをどのように見ることができるかをより聞いてみたかった。どちらの立場に拠ることがないように慎重にしかしながら何かが生まれることを期待して時間をかけてみることがあってもよかったように思う。

盆踊り
アラウンドネス
Photo
Naoyuki Sakai


オリジナル盆踊り《らららっとん》音楽

  1. Siegmund, Gerald: Theater- und Tanzperformance. Zur Einführung. Hamburg 2020, S. 223-226.Back
  2. 「ダサカッコワルイ」というアイデアは郡司ペギオ幸夫から直接的に着想を得ている。彼自身による「ダサカッコワルイ・ダンス」への観察は以下を参照。
    https://bodyartslabo.com/report/gunji.html(2023年9月8日筆者確認)Back
  3. ダンスとメランコリーとの関係については、ウィリアム・フォーサイスの振付作品《Loss of small details》に関する分析を参照。Vgl. Siegmund, Gerald: Abwesenheit. Eine performative Ästhetik des Tanzes. William Forsythe, Jerome Bel, Xavier Le Roy, Meg Stuart. Bielefeld 2006, S. 294-306.Back
  4. アンテルナシオナル・シチュアシオニストⅠ(木下誠ほか訳)「漂流の理論」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト1状況の構築へ——シチュアシオニスト・インターナショナルの創設』インパクト出版会、1994年、136-146頁。Back
  5. 石見舟「再認される風景とその歴史性——ハイナー・ミュラー『モーゼル』を例に」『研究年報』第36号、慶應義塾大学独文学研究室『研究年報』刊行会、2019年、1-27頁。Back