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3|powerlessなパフォーマンス

最後に今年のWWFesが持ちうる政治的射程について考えてみたい。このフェスティバルでは政治的スタンスを明言し、その党派的メッセージを伝えるパフォーマンスを行っていないことは明らかであるが、しかしそれだけでもって政治的中立を装っていると謗られるべきではない。しかしながら政治についてもはや語らないことは、もはやパフォーマンスが政治的無力でありや挫折してしまったことを暗に示すのであろうか。WWFesの政治性をなおも語りうるのであれば、現代においても芸術が政治的効果を得ることを目指すことが徒労に終わることは多かれ少なかれ受け止めねばならない。都市の様々な諸条件はもはや批判的な主体を生み出すような余地を必ずしも与えているわけではないからである。むしろ必要になるのはパフォーマンスが新しい現実を構成するような力を求めることではなく、むしろ「力を持たないこと(powerless)」へと注目することである。powerlessであることは弱いこととは同義ではなく、したがってある種の開き直りを許すものではない。権力関係を広く問い直すきっかけは力を持てないことから考えなおす必要がある。それはパフォーマンスが都市に対する抵抗として常に戦略的に用いられていることへの反省でもある。

哲学者ミシェル・フーコーは[*1]権力について語ったことは有名であるが、「力を持たない(powerless/impotent)」ことについて積極的に語ったわけではない。しかしながら彼の力および権力の議論を考える上で重要となるのは、演劇学者ゲオルク・デッカーが指摘するように、“powerless”と“impotent”は峻別しうるということである[*2]。いずれの言葉においても力を持っていない状態としての無力を示すが、潜在的な可能性を持ちうるか否かにおいて異なる。“powerless”とは、確かに力を持っていない状態ではあるが、それは現状の権力関係において働くべき力として発揮されていないだけであり、異なる関係すなわち装置においては力として働きうる潜在的な可能性を有する。一方でimpotentとは完全な無力であり、いかなる可能性へも変容しえない。スティグレールが危惧するような現代社会における人間の無力とはこのような意味でのimpotentであり、人間はそこではもはや権力関係においていかなる方法でも主体化されないのだ。もはやpowerlessな状態ですら抹消されてしまうのであれば、「力をもてないこと」について思考するとき、impotentであることをただ受け入れるだけになるのであろうか。フーコーの議論において暗に読み解くことができる「力を持てないこと(powerless)」は、単に力を発揮できない現状のみならず、権力関係を通じて生み出される現実において不在となっている力があることも示す。このような潜在的可能性は具体的な姿を確かめることができるわけでもなければ、それらを数え上げることもできない。powerlessであることで初めて今とは違う現実を求めることができるのであり、この点において言い換えれば異なる現実を求めることは、対立する現実を打ち立てようとする力を求めるということではなく、実現可能な余地を作り出すためにpowerlessであることを求めるといえる。powerlessな状態において可能性は潜在的であるがゆえに、異なる現実の姿を具体的に求めそれを実現する力を持つ必要は必ずしもない。しかしながら事実として確かめられない潜在的な可能性は、「今この現実とは違う」といういわば寄生的論理においてのみ現れるのであり、その意味ではあくまでそれを欲望することでよってしか現れない。それゆえにpowerlessな状態とは、人間の欲望可能な状態であるといえる[*3]

盆踊り
アラウンドネス
Photo:
Naoyuki Sakai

「トライアングル・プロジェクト」や盆踊りのリサーチ、シバウラハウスで行われたオープンなワークショップ、様々なトークは決して芸術と日常の境目をいわば超克しようとしていたわけでもなく、社会に有用な芸術のありかたを提示していたわけでもない。あくまでもその両者の間の関係をフェスティバルという状況においてイメージし直す可能性を示していたといえる。港区が金融経済化・メディア化・国際化という現代の都市を巡る多様な問題を取り込んでおり、それらの多くが人間をimpotentな状態に追い込むのだとしても、パフォーマンスがなおも行われるべきであるといえるのは、それらが批判的現実を生み出し観客と共有できるからではなく、都市の現実に対してまさしくpowerlessであるからだ。パフォーマンスそれ自体は芸術としての力を持つが、都市プロジェクトにおける都市の複層的な現実において異なる権力関係にもたらされpowerlessでもありうる。それゆえにWWFesでのプロジェクトは当初から無為として呈示されているのではなく、芸術それ自体および都市社会の関係においてpowerlessなものとして再発見されるのである。都市とパフォーマンスの往還関係は、いずれかが絶対的な現実として与えられることを認めない。両者の往還関係が、所与の関係ではなく、観客の中で可能になることこそが重要なのである。そして都市への介入というフェスティバルの目標は、powerlessな状態における欲望の可能性ひいては主体化の可能性を観客のうちに開くことで達成される。今回のプロジェクトが政治性を持つといえるのであれば、都市とパフォーマンスの二重化という身振りが繰り返されることで現れるpowerlessな状態が、我々を欲望する主体として作り出すことで始まるといえるだろう。


Whenever Wherever Festival 2023
〈ら線〉でそっとつないでみる
期間:2023年1月14日(土)−2月12日(日)
会場:SHIBAURA HOUSE、慶応義塾大学三田キャンパス旧ノグチ・ルーム、東京タワー、有栖川宮記念公園、麻布子ども中高生プラザ ほか

キュレーター:Aokid、岩中可南子、五月めい、西村未奈、山崎広太
企画・制作協力:石見舟、林慶一、福留麻里

主催:一般社団法人ボディアーツラボラトリー
助成:(公財)港区スポーツふれあい文化健康財団〔Kiss ポート財団〕
令和4年度港区文化芸術活動サポート事業

宮下寛司Kanji Miyashita

慶應義塾大学文学部・多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科等非常勤講師。慶應義塾大学大学院後期博士課程単位取得退学。専門は日欧の現代舞踊およびパフォーマンス。現在はドイツ語圏における舞踊学や演劇学の知見をもとに、現代舞踊およびパフォーマンスにおける「主体化」についての博士論文完成に向けて執筆中。
主な論文に「舞踏文化を動かすには:川口隆夫と田辺知美の『ザ・シック・ダンサー』における踊る主体と観客の視線」(平田栄一朗、針貝真理子、北川千香子共編『文化を問い直す』彩流社、2021年、141-162頁)。また主な翻訳に「ゲラルト・ジークムント「表象と参加のはざまで——演劇の社会的状況に向けて」」(『研究年報』特別号、慶應義塾大学独文学研究室『研究年報』刊行会、2021年、91-128頁)。

  1. 彼が「性の歴史」の探究へと至るために用いた方法論である装置(dispositif)は、彼の権力論を考える上で非常に重要であるが、紙幅の都合で紹介を割愛する。Back
  2. Döcker, Georg: Ⅰ. Power and Powerlessness in Performance. (An introduction in three parts). In: Performance Philosophy Journal 7.1(2022)
    https://www.performancephilosophy.org/journal/issue/view/14(2023年9月8日筆者確認)S. 1- 15, hier S. 11.Back
  3. Siegmund, Gerald: Ⅲ.Powerlessness and the Aesthetik of Theatre and Performance (An introduction in three parts.) In: Performance Philosophy Journal 7.1(2022)
    https://www.performancephilosophy.org/journal/issue/view/14(2023年9月8日筆者確認)S. 22-26, hier S. 26.Back
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