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トークシリーズ


TryDanceMeeting

Aokid ほか
TryDance
Meeting

Aokidが主宰する「TryDanceMeeting」はシバウラハウスにて2度開催された。ダンスについて立場を超えて自由に話す場所の必要性を彼自身が感じて始めた企画であり、これまでのWWFesにおいても何度か開催されてきた。

いずれの回もシバウラハウス内の陽当たりのよい窓ガラスのそばで数人が集まって始まった。この企画はパネルセッションではないために、興味を持ってやってきた人たちによって展開される。それゆえに集まる人によって語られる内容は異なるが、観客やダンサーあるいはそれ以外のジャンルのパフォーマーなどダンスに対して様々なかかわり方をする人々が混在して、自らの立場からダンスとどのように接しているかという意見を交換していた。ダンスについて語ることは難しく、トークイベントは主としてダンサーが作品の仕組みや身体感覚を語ることに終始することが多い。この企画はAokidによって議論が強く主導されることなく緩やかに意見交換が進んでいった。複雑なダンスの定義に立ち入ることもあったが、誰かが議論から置き去りにされるようなことはなく、話題の共有を確かめ合いながら進行していた。

自由にダンスについて話すときにおそらく重要なことは、好きなように語るということよりも、そのような語りを聴いて受け止めて応答していくことである。言い換えれば、トークという共同体において誰もが正解とならぬように常に次の人へとダンスについてのアイデアを手渡し続けることが重要なのである。そこでは誰であっても話すことができ、また特権的立場に誰も立ちえないという自由も同時に実現される。そのような場所では必ずしも明確かつ生産的な結論が導き出されることはないだろう。しかしながら自由に語るために聴くことは、自由にダンスを踊る/観るために他者のダンスを見届ける姿勢につながる可能性がある。そのためにも、答えを出すために議論を進めるのではなく、ほかの人の声を聴くために立ち止まる必要があるのである。

「TryDanceMeeting」はしたがって、ダンスについての知見を深めるようなダンスに対する補完的役割を果たしているわけではない。むしろこれもまたダンス上演そのものと等価になりうるような活動の一つである。ダンスが自由の実現を求めるような芸術である[*1]のだとすれば、そのような自由の実現可能性を実際にダンスについて語り聴く中で思考し実現することができるからである。このような特徴は近年の参加型芸術が目指す観客のあり方とも共通する部分があり、小ぢんまりとしていながらも見逃せない試みであったように思われる。


オルタナティブ!スペース、アクション、トーキング?
うらあやか、カゲヤマ気象台、神村恵、鈴木励滋、山川陸(モデレーター)

オルタナティブ!
スペース、
アクション、
トーキング?

このトークでは、パネリストとしてオルタナティブと呼ばれるスペースを立ち上げ運営している個人や団体が集まり、創作にまつわる新たな環境の可能性を模索した。近年注目されるようになった「オルタナティブ」を措定するために想定される正統性とは上演芸術の場合で言えば、劇場という場所であり劇場の運営に従う制作のスタイルやサイクルであろう。近年においてオルタナティブな場所がより求められるようになったのは、助成金制度をもとにした制作スタイルの疲弊および新型コロナウイルス感染症の感染拡大による劇場の機能停止といった理由が挙げられる。それらの理由からすればオルタナティブな場所を開くということは、劇場で制作を続けられないという消極的な動機に基づくといえるだろう。しかしながら、本来演劇やダンスあるいは芸術のために使われていない場所をそのために作り直すということの創造的営みは、上演における共同体および社会と上演芸術の関係を再構成することができる。このトークでも確認できるように、劇場制作の特殊な条件を浮き彫りにしながら相対化し、劇場と相互に行き来できるような場所を作るという積極的な動機に注目することがより重要である。

オルタナティブな場所の(物理的・経済的・あるいは地域との関係といった)諸条件はその場所固有の創作を導くものである。しかしながら劇場でないからこそあらゆる条件を見直して創作に用いることができるように再構成して、ルールを作らねばならない。“to mind is to care”[*2]と呼ばれるように、オルタナティブな場所を作り育てていくことはあらゆることを等閑視せず気にかけていくケアの実践であるといえるだろう。このようなケアの実践は、理想化されて規範的な劇場を小さい規模で再現することではなく、劇場とは全く異なる芸術的実践もまた上演として実現しうることを目指す。上演形態や規模あるいは長さは多様化し、そのための働き方もまさしく気に掛けるというケアの中で決まっていく。したがってケアは芸術制作のための現代的な手段であるばかりか、ケアの過程そのものは常に創造的かつ遊戯的であることが分かる。存続が保証されているわけではないために、オルタナティブな場所は新しいユートピアであると軽々しく言えるわけではないが、ケアが続く限りにおいて創造性を保ち続けるだろう。


生活者としてのアーティスト
穴山香菜、白井愛咲、長沼航、松本奈々子、宮脇有紀、米沢一平、呉宮百合香(モデレーター)

生活者としての
アーティスト

20代および30代のダンサーや俳優がパネリストとして集まり、生活事情を共有した。彼らは劇場に雇われているわけではなく、アーティストとして名乗る前にまず生活を成り立たせるための職業的身分を持っている。アーティスト個人として活動するための環境が年々厳しくなっていることは言わずもがなであり、わかりやすい解決策などないことももはや驚くべき事実でもない。ただしこのトークはある種の諦念と撤退のムードを共有することや、現状の変革を誰かに対してこぶしを握り締めて叫ぶことを目的としていない。司会者の意図はまず生活の現状を共有することにあり、お互いを認め合うことにあった。パネリストたちは普段は語らないであろう実態を赤裸々に語ってくれたこともありこの意図はかなりの程度達成できていたように思われる。アーティストになるための生活環境が長いこと一向に改善しないことに対する態度表明——ある種の覚悟——を迫る質問もあったが、(少なくともここはヒアリングのような公聴会ではなく届ける相手もいないことから)会場が怒りの共同体とならぬように自らの生き方を肯定して慎重に答えるアーティストの姿勢には拍手を送りたい。しかしながら彼らを自己責任の帰結として芸術に身をささげているものとしてみなすわけにもいかない。

助成金などの制度的な変更を目指すことが難しい中でできることは、トークの中で萌芽として見出されていたように思われる。それは、「何をダンスとしてみなすのか」という問いを繰り返していくことである。それは単に新しい身体運動を生み出そうと挑戦することだけではない。制作方法、上演形態や発表のフォーマットなど様々な条件を問い直して実験を続けていくことである。一般的に公演とみなされている発表形態だけがダンスではなく、そのために犠牲になるような日常生活は称揚されるべきではないだろう。ただし同時に新しい試みを素朴な表現とみなして周縁に位置づけるのではなく、規範的なダンス観を更新するために語りコミュニケーションを開いていく必要がある。個々のアーティストが試みる新しい実践も、そのために生活上試みていることも等しくダンスの変容をもたらすような批判的可能性である[*3]。ダンスそれ自体は芸術と日常生活を越えた生き方を可能にするわけではない。むしろダンスはそれ自体を通じて、芸術と生活がいかにして可能になるかを問うメディアになるのである。


ダンスを続けるということ
伊藤キム、笠井瑞丈、伊藤千枝子、山田うん、山崎広太(モデレーター)

ダンスを続ける
ということ

このトークでは日本のコンテンポラリー・ダンスを支えてきたダンサーや振付家が登壇した。「生活者としてのアーティスト」と地続きにある企画であり、さらにキャリアを積んだアーティストからみる現状を確認することができた。言わずと知れたダンサーたちであっても順風満帆ではなく苦労が続いており、現状も明るいわけではないということが各登壇者から語られた。暗いムードが会場全体を支配したのは確かである。トークのタイトルである「ダンスを続けるということ」を振り返れば、シンプルな目標でありながらいかにそれが困難かということがひしひしと伝わったのである。ダンスを続けるための正解やゴールはなく、個々人の努力や挫折は今後の世代を担う人たちがダンサーとしてのキャリアを積むために参考にできるとも限らない。ダンサーとしての生き方とはその人の生き方そのものであるというセンチメンタルな確信をえたことは確かであり、しかしながらどのような生き方であれ個々の人の生き方を肯定して、ばらばらでありながらも連帯してダンスを続けていくほかないのだろう。


スクリーニング・展示


スクリーニング|森の地図を描きながら、エクソシストの反対語を探してみること
ディレクション:西村未奈
映像デザイン・編集・制作:アマンダ・ハメルン

西村未奈・
アマンダ・ハメルン
《森の地図を
描きながら、
エクソシストの
反対語を
探してみること》

西村未奈がアメリカで制作したダンス・パフォーマンスの記録映像が上映された。舞踏を強く意識したハイブリッドな身体表現によって既に評価を得ている西村が、アメリカの都市にチームとともに出て踊る。今ここにはない身体表現を映像表現で眺めるが、身体とカメラの距離そして編集は単なる記録映像以上としてひとつの映像作品になっている。サイト・スペシフィックなコンセプトを再度確認することができたが、アメリカを拠点とする西村が東京を舞台にするとき、個人の活動においてどのような試みを仕掛けるかということを考えずにいられなかった。


展示|そっとして
斎藤英理

トライアングル・
プロジェクト
斎藤英理
《そっとして》

「トライアングル・プロジェクト」の一環として、シバウラハウスでのフェスティバル期間中に斎藤英理の作品が展示された。会場の片隅に設置されたモニタには、港区のどこかで撮られた風景の映像が流されていた。モニタ付近に掲示されたQRコードを読むと、スマートフォンなどのデバイスで絵文字によるタイトルがつけられた4編のエッセイを読むことができる。風景の中に埋め込まれて忘れられてしまうような東京の戦後の歴史と、その歴史に気づきつつも今の生活からはなかなか触知しづらいことのアンビヴァレントな感覚がつづられていた。風景の映像もどこかおぼろに撮られており反復を繰り返している。これはフェスティバル全体に通底する歴史と都市に対するひとつの応答の仕方と捉えることができるだろう。

会場のお手洗いへと向かう通路でおぼろげな声を聴くサウンド・インスタレーションも展示されていた。《rendance》の直前とあり盛り上がる会場の中で何を語っているのかは、筆者が接した際は聴くことはできなかった。しかし重要なのは何を語ったかではなく何を聴くかであると感じた。フェスティバルがクライマックスを迎える直前に立ち止まりなんとか耳を傾けるという行為は、今どのように生きていたとしても風景とそこに埋め込まれた歴史へと近づくために必要なミニマルな能動性であるように思われる。

  1. Huschka, Sabine: Moderner Tanz. Konzepte – Stile – Utopien. Hamburg 2012, S. 9-16.Back
  2. Brouwer, Joke u. van Tuinen, Sjoerd (Hrsg.): TO MIND IS TO CARE. Rotterdam 2019, besonders S. 4-7.Back
  3. ダンスやパフォーマンスの活動を行うことそれ自体が持つ現代資本主義社会への批判的ポテンシャルについては以下を参照。Vgl. Kunst, Bojana: Artist at work. Proximity at Art and Capitalism. Alresford 2015. Back