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変わらない日常を求めて

*注意:以下の文章には取りあげる作品の内容に関する記述(ネタバレ)が含まれます。

『あたりのキッチン』(2016〜2018、全4巻)の主人公、辺清美は他人とのコミュニケーションが苦手で18年間ずっと友達のいないまま大学に入ったが、好きな料理を通じて人と関わりたいという希望を胸に、かつて住んでいた小正町の定食屋「阿吽」で働きはじめる。接客もままならない清美だったが、お客さんひとりひとりの好みに合わせて調理する店主・善次郎のもと、一度食べた料理は調味料の分量まで正確に解読できるという特殊能力を活かし、気遣いと工夫を凝らした料理を通じて善次郎の息子である高校生の清正やその幼馴染である魚屋の陽芽、有名料亭の息子・樹、同じ大学に通う鈴代桜、商店街の他の住人らとのつながりを深めていく。

清美が善次郎と作る阿吽の料理の多くは、「メンチカツ」や「サバの味噌煮」や「ロールキャベツ」といった一般的な惣菜だが(各話の末尾にレシピも掲載されている)、彼女はそこに客への気遣いを込めたアレンジを施していく。例えば、常連で関西出身の若い会社員・新庄が食事もほどほどに忙しく仕事をしている様子をみて、同じように仕事に邁進してよく体調を壊す叔母の姿を思いだした清美は、来店した新庄にお冷ではなく温かいほうじ茶を持っていく。ほうじ茶を飲みながらお腹をさする彼のしぐさに気づいた清美は、新庄が注文した「鶏うどん定食」を関西風にしあげることを提案する。彼女は修学旅行で食べた関西のうどん屋の味を思いだして瞬時に「かつおと昆布の合わせ出汁500mlに みりん大さじ1 塩ひとつまみ 薄口しょうゆ小さじ2」とレシピに変換し、「あの味こそ新庄さんの思ううどんのはず……‼︎」と叫ぶ。善次郎も工夫を加え、鶏肉を別茹でして脂と臭みを抜き、消化を助ける大根おろしを添えた「鶏みぞれうどん」が提供される。

食べ始めた新庄はいつもと味が違うことに気づく。「あれ?このうどんなんか違う」、「なんか汁の色が薄くて……甘くない」、「関西風か!」、「うわ…っ」、「久々すぎてわからんかった」、「こんな美味かったっけ」、「…あ」、「ほうじ茶との組み合わせしっくりくる」。幼少期に家族とうどんを食べていたイメージが現れる。「急に思い出した 実家の匂い 電気の色 天井の高さ 家族の話し声」。一筋の涙が流れ、驚いてかけつけた清美に新庄は「大丈夫 全然 平気……だけどちょっと最近頑張りすぎた」、「美味しくて不意打ち……」と言う[*1]

「鶏うどん定食」という一般的な記号によって指示される商品が、それを食べることを通じて個別的なイメージに変換される。この点では『孤独のグルメ』と変わらない。だが、料理の作り手と食べる人が変換のプロセスを共有している点が異なる。清美は微細なしぐさから新庄が欲している料理の個別的イメージを引きだし、それを一般的記号から構成されるレシピへと変換し、レシピをもとに作られた料理はそれを食べる新庄によって個別的イメージへと変換され、二つのイメージの一致が新庄の涙によって示される。ここまで手をかけた調理がそれなりに繁盛している定食屋で可能であるとは到底思えないが、清美は単に全ての客を満足させたい勤勉な料理人ではない。

彼女は幼いころ阿吽の近くに住んでいたが、両親がそろって亡くなり、叔母夫婦に引き取られて引っ越していた。子供のいない叔母夫婦との関係を深めてきた料理の腕を頼りに小正町に戻ってきた彼女自身、なぜ阿吽で働こうとしたのかよくわかっていなかったが、商店街の人々との関わりを深めるなかで、善次郎の高校の先輩で阿吽の常連客であった父親と一緒に善次郎や亡き妻の料理を食べていたこと、幼いころ父がレシピを覚えて自作するくらい好きだった阿吽の料理をいつかこの店で働いてつくってあげると約束したことなどを思いだしていく。つまり、阿吽で料理を作ることを通じて彼女は幼少期の両親との個別的なイメージを再生し、それを善次郎や商店街の人々と共有するようになっていくのである。

以上でみてきた本作のストーリーは、一見すると相反する二つの運動によって駆動されている。第一に、料理を通じて様々な人と関わるなかで清美の身のまわりの現実が様々な仕方で拡張されていく運動であり、第二に、様々な人と関わるなかでかつて両親と一緒に小正町で暮らした日々の変わらない日常のありかたへと接近していく運動である。自らの手で現実を変えていくこと、かつての日常を取り戻していくこと、この二つのプロセスの共立をいかに捉えることができるだろうか。

批評家・宇野常寛は2011年に出版された『リトル・ピープルの時代』において、見田宗介と大澤真幸によって展開された、現実に対置される概念によって時代を区分する議論をあらためて取りあげている。見田は日本社会の戦後史を現実の反対語である三つの概念、理想、夢、虚構によって区分し、各時代の現実がこれらの「反現実」に準拠して組織されてきたと論じた。大澤は見田の三分類を理想と虚構の二分類に圧縮し、1972年の連合赤軍事件を理想の時代の終点として、1995年のサリン事件を虚構の時代の終点として位置づける[*2]。宇野は、「理想の時代」を国民国家という装置が作りあげた大きな物語との対峙によって人々が生を意味づけていた時代、「虚構の時代」を消費社会化とポストモダン化が進むなか人々が自らの手で捏造した「仮想現実」的な装置を駆使して大きな物語を代替するようになった時代として位置づけ、自らが「リトル・ピープルの時代」と呼ぶ1990年代後半以降における反現実は「拡張現実」であるとして、次のように論じている。

私たちは今、(古い意味での)「歴史的には」何物でもない路地裏や駅前の商店街を「聖地」と見做して巡礼し、放課後には郊外の川べりにたむろしては虫取りをするようにネットワーク上のモンスターを狩る。複雑化する社会生活において、私たちは日常的にその身体とは半歩ずれたそれぞれのコミュニティごとのキャラクターとして否応なく振る舞ってしまう。[……]私たちは<いま、ここ>に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、そして多重化し、拡大することができる。そうすることで世界を変えていくことができる。ハッカーたちがシステムの内部に侵入して、それを書き換えていくように、私たちは今、どこまでも世界の中に「潜る」ことで想像力を発揮し、世界を変える術を手にしつつある。リトル・ピープルの時代——それは、革命ではなくハッキングすることで世界を変化させていく<拡張現実の時代>だ[*3]

2020年代初頭を生きる私たちは、宇野の主張を特に興奮することなく受け入れることができるだろう。個々人の生はもってうまれた気質や出身地や家庭環境によって決定されるべきではない。もちろんそれらの影響はあるだろうが、それらを可能な限り対象化し分析し操作することで私たちは自らの生をデザインし、より自由に自分らしく生きていくことができる。現実とは所与のものではなく社会的に構築されているものであり、だからこそ常に構築し直し、拡張していくことができるのだ。こうした発想は、「ライフハック」や「働き方改革」といった言葉の広まりが示すように、既に一般的で規範的なものとなりつつある[*4]。あなたのSNSアカウントはフォロワーも少なく「いいね」も大してつかないかもしれないが、あなた自身を掘り下げ組み替え多重化して発信したら数万のRTがつき明日の朝には世界が一変しているかもしれない、現実をハッキングして世界を変えてやろうぜ! こうした語り口は、もはやウンザリするほど馴染み深いものではないだろうか。

現実が常に拡張されるべきものになれば、現実と拡張現実の境界は消え去る。そもそも「拡張現実」は現実の反対語ではなく、「現実」に形容詞を加えた名詞である。常に拡張されるべきものとなった現実を「拡張=現実」と表すとすれば、その反対語は拡張されえない現実であり、ありのままの変わることのない日常である。理想/虚構の時代において現実の同義語であった「変わらない日常」は、今や現実の対義語となりつつある。自らの手で現実を改変していくことが奨励され規範化されることで、変わらない日々のありかたは現実から追放され、<いま、ここ>の彼方に希求される反現実へと転化していく。

こうした日常の位置付けを「日常=反現実」と表すことにしよう。それは、誰もが求める単一の理想的な生活(ユートピア)ではなく、人々が無制限な現実の拡張を試みるなかでその目標点として創出される、特定の仕方で限定された現実の像である。膨大な商品群の探索と選択に基づくライフスタイルから退いて必要最小限の持ち物だけで暮らす「ミニマリスト」や、製品や情報の氾濫に流されずに日々をきちんと大事にすごすような生活を想起させる「丁寧な暮らし」という言葉の広まりは、「拡張=現実」が「日常=反現実」を準拠点として組織されていく運動として捉えられる。このように考えれば、宇野が言う拡張現実が規範化した現在のあり方を「日常の時代」と呼ぶことができるだろう。

ただし、何が「必要最小限」であり、何をもって「丁寧」と言えるのかは常に変動する。それが一律に固定されてしまえば恣意的な価値への固執に至り、現実の拡張を阻害することになるからだ。「丁寧な暮らし」の牽引者とみなされてきた雑誌『暮しの手帖』は、2020年1月号の表紙に「丁寧な暮らしではなくても」というフレーズを掲げた。この号から編集長に就任した北川史織は、この言葉が今では型にはまったスタイルを指すものになってしまったため雑誌の看板とするのは違うのではないかと感じ、「読者の皆さんの思う<丁寧な暮らし>とはどういうものですか? と問いかけたかった」のだと言う[*5]。「日常=反現実」は固定されてはならない固定点であり、一般的な記号が構成するパターン化された商品購入やライフスタイルによって汲み尽くされることのない個別的イメージを含んでいなければならない。そうでなければ、拡張=現実の無限定性を緩和しながらそれを活性化させることができなくなるからである。

『あたりのキッチン』においてもまた、現実を変えることと変わらない日常を求めることは一方が他方を否定しない仕方で共立している。辺清美は料理を通じて人とうまくつながれないという現実をハッキングし改変していくが、それは同時に両親と暮らした町での懐かしい日常へと無限に接近していくことでもある。二つの運動が共立することで、単なる料理人の成長譚でも、家族という欠如が埋められていくありふれた人情話でもない、本作独特の魅力が生じている。だが、この共立を可能にしているのは食べる人の個別的イメージを正確に捉えレシピと料理に変換できる清美の特殊な能力にほかならない。同じような料理でも人によって感じ方は違う。清美のような能力を持たない私たちは、いかにして個別的イメージを他者とすりあわせることができるだろうか?

  1. 白乃雪 2017 『あたりのキッチン(1)』講談社、62-64頁。Back
  2. 大澤真幸 1996『虚構の時代の果て——オウムと世界最終戦争』筑摩書房、38-40頁。Back
  3. 宇野常寛 2011『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、425-426頁。括弧内は原文ママ。Back
  4. 久保明教 2019『ブルーノ・ラトゥールの取説——アクターネットワーク論から存在様態探求へ』月曜社、247-248頁。Back
  5. 「「丁寧な暮らしではなくても」……「暮しの手帖」新編集長がチャレンジングなフレーズに込めた思い」『文春オンライン』2020年7月8日(https://bunshun.jp/articles/-/38796)。Back