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レシピとイメージ

*注意:以下の文章には取りあげる作品の内容に関する記述(ネタバレ)が含まれます。

近年ドラマや映画にもなった人気作『きのう何食べた?』 (2007〜、既刊19巻)では、弁護士の筧史朗(シロさん)と美容師の矢吹賢二(ケンジ)という同性愛カップルが2LDKのアパートで暮らす毎日が描かれる。各話の基本的な構成は、まず二人の職場の同僚や友人や家族との様々なエピソードが展開された後、それと同じかやや多いページ数を割いて(主に史郎、時おり他の登場人物が)料理を作る過程が描かれ、最後にシロさんとケンジが一緒に夕食を食べ、序盤の展開がなんらかの仕方で回収される、という形をとる。

食マンガとしての本作の特徴は、レシピを一品ごと紹介するのではなく、複数の品を並行して作っていく調理過程を詳細に記述することにある。例えば、ゲイ友達も交えた二年参りを提案して嫌がるシロさんをなんとか説得したケンジが大晦日に風邪をひいてしまい、シロさんは消化によいお粥を「ケンジの分だけ分けて作んのもめんどいから二人分作って俺も喰おう」と言って以下のように調理を始める。

「大根10cmは長さ半分にして太めの千切りに 鍋に水500~600ccと大根を入れて火にかける 小さめのごはん玉2個は解凍してぬめりを取るため水洗い」
「鍋が沸いてきたらごはんと和風だしの素を入れて 大根に火が通るまで弱火で炊く」
「さて その間にもう一品」「水150cc片栗粉大さじ1鶏ガラスープ小さじ1塩少々コショウ少々酒少々をよく混ぜておく」「ねぎ5cmとしょうが1/2かけはみじんに切って」
「ブロッコリー1株は小房に切り分けておく カニかま50~60gはほぐしておく」
「フライパンにサラダ油を引き しょうがとねぎのみじん切りを弱火で炒めて」
「香りが立ってきたらブロッコリーを入れて 水大さじ2を入れて すぐにふたをして蒸し焼きにする」「ブロッコリーがゆだったらカニかまとあわせ調味料を入れ」
「とろみが十分つくまで煮込む」
「最後にごま油で香りづけしたらブロッコリーのカニかまあん出来上がり!」
「おっとごはんの方もいい具合だ これに今回はみそで味つけをして…」
「卵をぽとんぽとんと二つ落としてやって半熟に火を通したら出来上がり!」

こうして「大根と落とし卵のみそ雑炊とブロッコリーのカニかまあん」が完成する。ケンジは、「みそ雑炊ってはじめてかも…」、「俺これ好き~~」とか「あ~~こっちもおいしいじゃん! 塩味のあんにカニかまの甘味がほんのりしてやさしい味よ~~」などといいながら美味しそうに食べ終わり、シロさんがデザートに出したさつまいもとリンゴのレモン煮にも「さつまいものしっとりした甘さと酸っぱいりんごの取り合わせがおいしい~~♡」、「シロさんがこんなに優しくしてくれるなら俺もう初詣なんて行けなくてもいいや~~」と言う。これには、二年参りを嫌がっていたシロさんも思わず「……何だよ そんなのまた来年行きゃいいだけの話だろ」と言ってしまい、「ありがとうシロさん 来年ね!! 絶対行こうね初詣!!」と喜ぶケンジの前で「し しまった…」と内心思う[*1]

風邪をひいたケンジのために作った料理なので普段の夕食(ご飯と味噌汁に主菜と副菜一つか二つ)よりは品数も工程も少ないが、それでも調理過程に4ページが割かれている。本作の調理描写は、一見すると極めて実用的なレシピであるように思えるが、複数の料理を同時に調理する流れのなかに各料理のレシピが分散して配置されるために、実際にレシピとして使おうとするとあまり実用的ではない(筆者も時おり参考にするがタブレットで画像をとっても画面を切り替えながら調理しなければならない)。

だが、調理過程が一品ごとに独立して描かれてしまえば、弁護士として働き、帰宅後の短い時間で帰ってくるケンジのために料理するシロさんの姿からリアリティが失われてしまうだろう。自分の仕事を終えてから食べる人が帰宅する前に一汁三菜の献立を完成させようとすれば、一つ一つの料理を別個に作っている余裕などない。シロさんの調理過程はレシピを構成する一般的な記号によって構成されているが、それを限られた時間のなかで完成させようと工夫し組み合わせていくプロセスが、その時々の状況においてケンジに対する(淡々とはしているが確かな)想いのこもった個別的イメージをたちあがらせる。完成した料理を二人で感想を言いながら食べることでシロさんがたちあげた個別的イメージはケンジと共有される。単に「おいしい」というだけでなく些細な工夫にも気づいてくれるケンジのリアクションやコメントは、日々だれかのために食事を作るものにとって極めて理想的なものである。

一方で、同性愛カップルであるシロさんとケンジの生活は、互いの想いがなくなればすぐに解消されてしまう関係を基盤にしており、今のところ「男夫婦」のような比喩的イメージによってしか表せないものである。彼らにとって『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』の次郎とみふゆがたどり着いた、家族や友人や国家行政からの承認を前提とした結婚生活は、現実にはありえない文字通りの「反現実」である。だからこそシロさんは貯金をふやすためケンジにも節制を求め、スーパーでは可能な限り特売品を購入し、工夫をこらして毎日の食事を作る。彼の料理は、1980~90年代に活躍した料理研究家・小林カツ代や栗原はるみの、美味しくて時短でもあり簡単でありながら外食に負けないインパクトをもったレシピを彷彿とさせるものである[*2]が、彼女たちのレシピには殆ど登場しない「和風だしの素」や「麵つゆ」や「白だし」が頻繁に用いられる。それらは、様々な料理がより簡単に作れる代わりに味つけを均質化する調味料であり、家庭料理を支える標準的な媒体の一つである。ただし、その活用は限定的かつ選択的であり(例えば本作にはコンビニが殆ど登場しない)、専業主婦の友人・佳代子さんにあく抜きしてもらった筍で毎年一回は筍ご飯を作るなど、周囲にも支えられながら「丁寧な暮らし」が実現されているように見える。

「結婚」や「夫婦」のような一般的記号によって指示できない彼らの生活は、両親に相手を紹介する難しさや他のゲイ友達への微かな恋愛感情などを契機として、たびたび安定した軌道を外れて拡張せざるをえない。日々の料理と食事を通じた個別的イメージのすりあわせと標準的媒体の選択的な活用を通じて、彼らが生きる「拡張=現実」はありのままの変わらない日常(=反現実)へと滑らかに接続されていく。それを可能にしているのは、シロさんやケンジの淡々としてはいるが激しい日々の戦いに他ならない。だからこそ、その姿は、異性愛のカップルであれ恋愛から結婚に至るような固定した軌道を想定しにくい「日常の時代」を生きる多くの人々を魅了してきたのだろう。

しかしながら、本作における「拡張=現実」と「日常=反現実」のシームレスな接続を可能にしているのは、弁護士としての激務のあとでも限られた時間で毎回美味しい料理を作ることのできるシロさんの並外れた実務能力と、出された食事にこまめに反応し作り手を満足させてくれるケンジの(美容師という職業を背景にした)柔軟な対応力でもある。シロさんとケンジのカップルは、いわば、高度経済成長期の優秀なサラリーマン=夫と優秀な専業主婦=妻の能力を兼ね備えた人物(シロさん)と後者が前者に期待してもなかなか得られることのない配慮と気配りのできる人物(ケンジ)の最強タッグであり、だからこそ、標準的媒体の限定的な活用が可能になっている。

『きのう何食べた?』と同じく、公的なカテゴリーにあてはまらない共同生活を描いた『かしましめし』(2016〜、既刊4巻)には、同級生の死をきっかけにルームシェアをはじめた三人の元美大生が登場する。憧れていた広告代理店に入社したが心が折れて退社した千春、キャリア志向だが同僚との結婚が破談となって会社でも冷遇されるようになったナカムラ、恋人との関係がうまくいかないゲイの英二。3人は千春の家で同居をはじめ、ホームパーティ風の夕食をともにするようになる。例えば、ナカムラが破談になった同僚の結婚式の引き出物として入手した卓上フライヤーを用いて、食材を持ち寄った串揚げ大会が開かれる。

「予算は?」「1人2千円まで」「いろんなものを少しずつ」「食材被らないように」「作るところからみんなで」「じゃやがいもや火の通りにくい野菜は一口大に切ってラップしてレンジでチンしておくと楽」「玉ねぎやえのきなどバラバラになりそうなものは豚肉うす切りで巻く」「食材を串に刺して」「それぞれ食べたいものに衣(卵1個、牛乳100cc、小麦粉150ccを混ぜた液にくぐらせパン粉)をつけ」「熱した卓上フライヤーで揚げる!」「揚げたて最高~~~~~~~~~~」[*3]

彼女たちが作るのは、煮こむ・干す・漬けるといった手間や時間のかかる料理ではなく、レシピ投稿サイト『クックパッド』の人気レシピのように[*4]、工程がわかりやすく時間もかからず見栄えがして美味しい(と言いやすい)料理であり、しばしば卓上フライヤーやホットプレート、手巻き寿司やアレンジ素麺のような調理過程を共有しながら各人が好きに食べられる調理形態が採られる。一般的記号から構成されるレシピの自由な組み合わせを通じて、各人の個別的イメージが尊重されながら共有される。料理を思い思いに食べながら個々のプライベートな事情が話されると同時に、互いに踏み込みすぎることがないように配慮しあう優しい空間が現れる。

本作で描かれるのは、個々の登場人物が生きる「拡張=現実」において共に料理を作り食べ語らうなかで束の間現れる「変わらない日常」の不安定なイメージであり、その影響力への繊細な警戒である。例えば、引き出物のフライヤーを使った串揚げ大会が終わりに近づくころ、英二は「結婚かあ ええなあ」と言う。「えっ」、「いいの?」と驚く二人に彼は「世界一硬くて壊れへんもの(ダイヤモンド)みんなの前で交換して認めてもらうて最強やん」と続け、二人は「まあっ乙女」とリアクションする。会話は盛りあがるが、各人の事情に直に踏みこんだ話はなされない。千春は心のなかで次のように思う。「英二は他にも部屋があるのにリビングをカーテンで仕切って住んでいる それは気持ちを向こうに置いてきたということ ここは仮住まいということ それは実家が近くにあるナカムラもそう この場所は永遠じゃないということ でも だからこそ 居心地がいいんだということ」。

「変わらない日常」の伝統的/形而上学的な同義語は「永遠」である。串揚げ大会が終わり、「作るのも食べるのも面白くて」、「もうずっとこのままなんだと思ってた」、「ずっとこのまま楽しいと」という千春のモノローグが流れる。「永遠じゃない」が「ずっとこのまま」という矛盾した表現の連なりからは、「変わらない日常」の希求とその絶対視への警戒が滲みでている。3人はそれぞれに広告業界での成功(千春)、祝福される結婚(ナカムラ)、作り手としての充実(英二)という目標点を持つが、それに囚われすぎると生が損なわれることに気づいてもいる。だからこそ彼女たちは、愉しいホームパーティが喚起する「永遠」のイメージから距離を取らざるをえない。千春は皆と食べる時に作って余った料理を全て冷凍保存しているが、一人の時には栄養たっぷりでヘルシーな手作り料理は一切食べないと言う。『きのう何食べた?』が描きだす「拡張=現実」と「日常=反現実」のシームレスな接続は、接続の仕方によっては個々人の生を損なう暴力性を帯びるのだ。

本作ではまた、『きのう何食べた?』では殆ど描かれないコンビニエンス・ストアがしばしば描かれる。串揚げ大会では英二がコンビニで購入した具材が次々と串揚げになり、彼は「何のかんの言いつつ働いとるとコンビニ育ちになるからなぁ」とつぶやく。また、千春が想いを寄せる美術予備校時代の恩師・蓮井は、かつて会社をやめて呆然自失のまま街で車にひかれそうになった千春を助けていた。彼もまた生徒に訴えられて予備校をクビになり妻からも離婚をきりだされ、「もうどうでもいいや」と思ってフラフラ歩いていたが、コンビニの明るさにひきつけられて店内にはいり、食品棚をみて「……あ 腹へったな」と感じ、「なんだ 食欲あるじゃん ってわかったら 急に大丈夫になった気が」したのだと言う。そのとき買ったサンドイッチを千春にわたして、蓮井は次のように語る。

「コンビニは偉大だよな」
「明るく清潔で均質で万人に受け入れられる設計になっている」
「21世紀の日本人共通の思い出の味って」
「コンビニのごはんになるんじゃないかな」[*5]

簡単で多彩で美味しい料理に満ちた「拡張=現実」は、レシピ投稿サイトやコンビニといった標準的媒体が構成する「標準=現実」によって支えられている。Twitterで日々様々な内容を自由に発信しようとすると毎回必ず140字以内の短文を書かざるをえないように、各人の好みにあわせて好きな時に好きな料理を楽しもうとすると「麺つゆ」や「コンビニのごはん」のような標準化された味に頼らざるをえなくなる。煮こむ・干す・漬けるといった時間のかかる料理が本作に登場しないのは、単に時間がかかるからではなく、3人の愉しい共同生活が数日間におよぶ長期的なスパンで食べるものを固定することに耐えられないからである。

現実の拡張が規範化した時代において、ありのままの変わらない日常とはコンビニ飯やTwitterの字数制限のような標準的媒体そのものなのかもしれない。だが、「日常=反現実」と「標準=現実」が完全に一致してしまえば、現実の可変性は失われる。『かしましめし』の登場人物たちは「標準=現実」に限定されながらも、その構成要素を自分なりにアレンジして「日常=反現実」を求めることをやめない。その姿は、シロさんやケンジとは異なる仕方で、日常の時代を生きぬく道筋を示している。

  1. よしながふみ 2018『きのう何食べた?(13)』講談社、45-49頁。Back
  2. 久保明教 2020 『「家庭料理」という戦場——暮らしはデザインできるか』コトニ社、27-57頁。Back
  3. おかざき真理 2018『かしましめし(2)』祥伝社、第8話。括弧内は筆者による。Back
  4. 久保明教 2020 『「家庭料理」という戦場——暮らしはデザインできるか』コトニ社、156-177頁。Back
  5. おかざき真理 2021 『かしましめし(4)』第23話、祥伝社。Back