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すりあわせとすれちがい

*注意:以下の文章には取りあげる作品の内容に関する記述(ネタバレ)が含まれます。

アニメやドラマにもなり1980年代以降のグルメブームの一端を担った『美味しんぼ』(1983〜2014、既刊111巻)には、和洋中の高級料理からラーメンのような大衆食まで多種多様な料理が登場するが、家庭における食が描かれることはあまりない。だが、本作全体のストーリーにおいて家庭料理は重要な位置を占めてもいる。

東西新聞社に勤める主人公の山岡士郎と同僚の栗田ゆう子は自社の記念事業「究極のメニュー」の担当となり、士郎の父で芸術家の海原雄山が担当する帝都新聞社の「至高のメニュー」と料理対決を繰り広げていく。士郎は、母親が毎日作る料理を気に入らないと罵り、気のすむまで作り直させていた父・雄山を憎んでおり、雄山が自分の芸術のために母親を犠牲にしたことが母の死の原因だと考えていた。やがて、士郎とゆう子は結婚することになり、新居の家具を探しに百貨店にでかけた二人は、母親を看取った水村医師と出会う。水村は、母親は士郎を生んだことで持病の心臓疾患が進んで余命10年と言われていたが、駆け出しの雄山が芸術家として大成することを一番の生きがいとしており、毎日の食事も雄山が芸術の一分野と考える「美食」を極めるために協力していたのだと語る。

士郎は、父に忍従を強いられた精神的苦痛が母の命を縮めたのだと反論するが、水村は「それは違うな。逆につねに心地よい緊張感を持っていることは、生活にはりが出て、精神に活力を与えるものだ。奥さんにとって、美食を極めるという点で海原さんに協力しているということほど、生きがいを感じるものは、なかっただろう」と返す[*1]。士郎とゆう子の結婚披露宴は、究極と至高の対決の場になったが、雄山は極貧のなか結婚して初めての正月に妻が作った献立を「至高のメニューの中の至高の料理」として提示する。それはありふれた総菜料理に見えたが、三浦半島の山中で汲んだ水を使い薪の火と羽釜で炊いたご飯、漁師から仕入れた旬の真鰯を焼いたもの、自然養鶏の肝臓と砂肝を裏庭で育てた大根とあわせた煮物、天然のニガリで固めた自家製の豆腐に吉野の本葛でとろみをつけた餡をかけたものなどだった。審査員たちは全ての品に驚愕し褒めたたえ、士郎は「この味、記憶にある……」とつぶやき、ゆう子は「自分と奥様の本当の姿がどんなものだったか、海原さんは山岡さんに語りたかったのだわ」と思う[*2]

披露宴の翌日、ゆう子は自分なりに工夫を凝らした純日本風の朝食を作るが、士郎は「俺は、味噌汁の実は一種類だけのほうが好きだ。実をいくつもいれると、味がにごる」、「豆腐の切りかたが小さすぎる。これじゃ豆腐のうまみが抜けちまう」、「生卵をなっとうに入れるのは嫌いだ。卵の匂いがなっとうとまざると、生臭くてさ」とすべての品に文句をつける。翌朝、士郎の文句を踏まえてゆう子が作った朝食を再び彼は酷評し、ついに我慢できなくなったゆう子は「私、一生懸命しているのに、ひどいわ!あなたがこんな乱暴で残酷な人だなんて!」と叫んで部屋に閉じこもってしまう。

士郎がマンションの一階にある小料理屋に行くと、話をきいた店主のはるさん(尾沢はる)がゆう子を呼び、二人にひらめのグラタン、芋粥、身欠きにしんと昆布の煮物、ご飯に添えた魚の煮こごりを食べさせる。それらはいずれも独身男性や単身赴任の客に頼まれて作った、彼らの母や妻の「なつかしい家庭の味」だった。はるさんは二人に問いかける。「私も、人によってあまりに違う家庭の味をもっているから、おどろいたのよ」、「考えてみてください。グラタンが母親の味、という人と、ニシンと昆布が家庭の味、という人が結婚したら、どうなるか?」、「結婚というのは、違う家庭で育った者どうしが、両方の家の味やしきたりを持ち寄って、新しく自分たちの味としきたりを作り上げるものでしょう?」、「相手の家庭の味としきたりをむげに否定してしまったら、どうなるでしょうね?」。士郎と裕子は反省し、二人で家庭の味をつくりあげていこうと笑顔で自宅に戻っていく[*3]

雄山と士郎のエピソードには反復と変化が共にみられる。雄山は妻の料理を罵り気のすむまで作りなおさせたが、その記憶は、美食を極めるという点で夫に協力することが妻の生きがいだったという理解によって上書きされる。士郎は記憶のなかの父と同じように妻の料理を罵倒するが、はるさんの話を聞いてあっさり納得し「自分の流儀を一方的に押し付けたのが悪かったようです」と言う。前者における妻が夫に尽くすことを肯定する価値観は後者にはもはや見られないが、お互いの好む味をすりあわせながら協力しあって生きていく夫婦の姿が描かれるという点では変わるところがない。

披露宴が描かれる単行本47巻は1994年に出版されているが、そこで示される家庭料理観は一時代前の高度経済成長期から培われてきたものである。生活史研究家の阿古真理は、1950年代から1970年代にかけて集団就職によって地方から都市部に移住した若者たちが都市部の女性と結婚するなかで食生活に大きな変化が生じたと指摘し、次のように述べている。「ふるさとを離れた夫と都会育ちの妻は、食べてきたものが違う。自分の家で受け継がれてきたものだけでなく、相手の好みも取り入れ、新しい家族の味を築き上げていかなければならなかった。この時代に洋食・中華が受け入れられ浸透していったのは、異なる食文化を背景に持つ夫婦がたくさん生まれたからである。和食の味つけやだしの取り方については、夫婦の好みが違っても、洋食・中華はあまり食べたことがない。新しい味は、出身の違う夫婦に好都合だった。急速な都市化は、新しい食文化を育てたのである」[*4]。ただし、こうした味のすりあわせは、多くの場合、家庭の外で働き給料を稼いできてくれる夫の好みにあわせて専業主婦/兼業主婦の妻が手の込んだ料理を作るという非対称的な関係においてなされるものであった。

『美味しんぼ』という作品は、阿古の言う「新しい食文化」を前提としながら和洋中の多様な料理を紹介するグルメマンガであるが、そこで描かれる味のすりあわせは特定の規範によって方向づけられている。雄山にとって極貧時代に妻が作ってくれた正月料理は、私的で個別的なイメージを喚起するものだろう。だが、その献立は「三浦半島の山中で汲んだ水」、「天然のニガリで固めた自家製の豆腐」、「吉野の本葛」といった料理の真正性を強調する一般的な記号にあふれている。両者をつないでいるのは、素材を生かし手間ひまかけた料理こそが正しい料理だという考え方であり、1960~70年代に活躍した料理研究家・土井勝がレシピを通じて広めたような、手作りの家庭料理と懐石などの料理屋料理を連続的に捉える発想である[*5]。士郎の「自分の流儀を一方的に押し付けたのが悪かったようです」という反省しているのかいないのかよくわからない発言が許されるのも、ゆう子より彼の方が正しい食の知識を持つことが前提になっている。

本作はグルメマンガであると同時に、普段はぐうたらだが食に関しては才気をみせる山岡士郎が大芸術家の父・雄山と対決しながら成長していくストーリーマンガでもある。ただし、両者の対決が真に正しい食文化とは何かをめぐって展開されるために、食に真正性を求める発想に馴染みのない現代の読み手にとっては、ストーリーの面白さよりも(執拗な食品添加物批判も含めて)権威的で説教臭い印象が勝るだろう。だが、それは、私たちが一般的な価値によって個々人の生が一律に規定されることを否定しようとしてきたことの効果に他ならない。

『美味しんぼ』がその一端を担ったグルメブームを含む消費社会化が急速に進んだ1990年代には、食の個食化や外部化が社会問題としてたびたび報じられている。出身地の異なる夫婦が味の好みをすりあわせることが重視された1960~70年代とは異なり、1990年代の家族を構成する各人は、家庭料理以外にもレストランやコンビニで多種多様な料理を日常的に味わい、自らの味の好みを育てるようになる。とはいえ、一人で食べるからといって味のすりあわせが不必要なわけではない。消費社会を生きる人々にとって、不特定多数を相手に提供される膨大な食品から自分の好みにあった商品をいかに選びだすかは、極めて日常的な問題となっている。

こうした消費社会における食の機微を描いた代表的な作品が『孤独のグルメ』(1994〜1996、全2巻)だろう。本作は2000年代に再評価され、2012年にドラマ化されると、現在まで安定した人気を博している。主人公の井之頭五郎は輸入雑貨商を営む独身男性であり、仕事の合間に訪れた様々な店でひとり食事を楽しむ。主に描かれるのは、店を選びメニューから注文するという選択と消費の淡々としたプロセスだが、五郎の些細な失敗や思い違いが物語に起伏を与えている。定食に豚汁を追加したら豚肉が被ってしまい、回転寿司で注文しても声が届かず、腹が減ったので甘味処で雑炊を頼んだら季節メニューでまだやっておらず、小鉢を注文しすぎて飯とおかずのバランスに悩み、これと決めて買ったジェット焼売が新幹線でひどく匂って肩身の狭い思いをする。

五郎は自分の気分や体調をふまえて店を選びメニューを吟味して注文するが、その予想や期待と実際の食事はいつも微妙にすれちがう。だが、期待したものとは異なる料理にとりかかるなかで、それは固有の意味をおびた食事へと変わっていく。例えば、京浜工業地帯を通って川崎セメント通りの焼き肉屋に入った五郎は、昼間から大量の肉を頼み、「うん、うまい肉だ」、「いかにも肉って肉だ」とつぶやきながら食べ続け、ふと目に入ったチャプチェを追加する。それは「翌日あっためなおしたスキヤキのよう」で味付けも濃く、ご飯の残量に不安を覚えた彼はライスを追加注文して汗をかきつつ再び肉を焼き、「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」とつぶやきながら食べ続ける[*6]

「豚汁」や「雑炊」といった一般的記号が指示する商品を選択しながら、予期したものと微妙にすれちがう食事に心身をすりあわせていくことで、非慣習的で個別的なイメージ(「人間火力発電所」あるいは「うおォン」)がたちあがる。不特定多数に向けられた商品である食事を自らにとって固有の意味を持つものに変換させていく五郎の姿は、『美味しんぼ』などのグルメ情報が牽引した記号としての食べ物の差異に価値を見いだす営み、より一般的にはボードリヤール以降論じられてきたような記号消費とは異なる仕方で消費を意味づける道筋を示すことで、消費社会を生きる多くの人々を魅了してきたのである。

『美味しんぼ』では、食をめぐる諸々の個別的イメージが文化的な真正性をめぐる父子の対決を通じて一般的な記号へと変換されていく(このため、「至高」と「究極」の対決は、しばしば料理の味よりもそれを形容するレトリックの戦いとなる)。これに対して、『孤独のグルメ』では、一般的な記号が構成する差異の体系に属する商品としての食事がすれちがいとすりあわせを通じて個別的なイメージへと変換されていく。

井之頭五郎は山岡士郎のように蘊蓄を語ることも優劣をつけることもなく、ただ日々の消費活動に柔軟に向きあって自分なりの意味を見いだしていく。それは確かに消費社会の深化のなかで生まれた新たな成熟であり自由であると言えるだろう。だが、それが可能なのは五郎が常にひとりで食事をしているからである。肉を焼きつつ白飯をかきこみながら「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」とつぶやく五郎に対して、一緒に焼肉を食べている知人が「焼肉に白メシは…邪道!」と言ってマッコリを勧めてくるようなこと[*7]になれば、五郎の自由は簡単に失われてしまう。

私たちは常に誰かと食事しているわけではないが、常にひとりで食事しているわけでもない。消費社会を生きる自由な主体はいかにして他者と食を共有できるのだろうか?

  1. 雁屋哲(作)・花咲アキラ(画) 1994 『美味しんぼ(47)』小学館、123頁。Back
  2. 同書、228頁。Back
  3. 雁屋哲(作)・花咲アキラ(画) 1994 『美味しんぼ(48)』、小学館、11-26頁。Back
  4. 阿古真理 2013『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』、筑摩書房、50-51頁。Back
  5. 久保明教 2020 『「家庭料理」という戦場——暮らしはデザインできるか』コトニ社、98-103、201-206頁。Back
  6. 久住昌之・谷口ジロー 2008 『孤独のグルメ【新装版】』扶桑社、83頁。Back
  7. おおひなたごう 2014『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(3)』KADOKAWA、144頁。Back