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何をいかに共有するか

*注意:以下の文章には取りあげる作品の内容に関する記述(ネタバレ)が含まれます。

『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』(2012〜2019、全12巻)の主人公・田宮丸次郎は、ゆるキャラ「どくフラワー」のスーツアクターである。彼は駆け出しのお笑い芸人・長島みふゆと恋仲になり、初めての朝を迎える。みふゆが作ってくれた朝食は、半熟の目玉焼きにソーセージとほうれん草の付け合わせ、ご飯と味噌汁という「文句なしの朝ごはん」だった。次郎はさっそく黄身をつぶして付け合わせと絡めて口に入れ、白飯を楽しそうにかきこむ。だが、みふゆは目玉焼きの白身だけを食べ続け、最後に黄身だけを美味しそうに口にいれた。その姿に次郎は驚愕し、みふゆを問い詰める。

「みふゆ お前! 黄身ひと口って なんて勿体ない食べ方を」
「そう?」
「白身や付け合わせを黄身に絡めて食べた時の旨さを知らないのか?」
「んー 知らないワケじゃないけどあたしはずっとこの食べ方だなぁ」
「黄身つぶしちゃうとお皿汚れるでしょ? それがイヤなの」
「さ…皿が? そんな理由で?」
「そんな理由って何よ?」

驚きを隠せない次郎は思わず「おまえ バカか?」と言ってしまい、気がついたらみふゆはもういなかった[*1]

次郎は反省して着ぐるみショーの上司・近藤雄三に相談するが、近藤もまた目玉焼きの黄身だけを残してご飯と混ぜ一気にかきこむという独特の食べ方を披露した。帰宅した次郎は深夜に目玉焼きを作り、黄身だけを残して食べようとするが、その難しさに驚く。自分の食べ方が正しいと思っていた次郎は、誰もが自分の食べ方に疑問をもっていないことに悩みはじめる。数日後、定食屋でトンカツを食べていると、カツをたいらげてから最後にキャベツを食べる女性客を見て、次郎は再び驚愕する。彼にとって、カツとキャベツが口のなかで渾然一体となっているところに飯をぶちこむのが一番おいしい食べかたであり、皆そうしていると思っていたからだ。次郎はみふゆと再会するが、反省を伝えることもなくトンカツのキャベツをどう食べるか尋ねる。

「あたしは… カツを食べて 飲み込んだら キャベツを口に入れるわね」
「え? 飲み込んでから?」
「カツが口に残っているウチにキャベツを入れるんじゃないのか?」
「ちょ… 立たないで」
「あたしにとってのキャベツは 脂っこい口の中を中和させる存在なの」
「なんなんだ? 中和って! とんかつ食うなら脂にまみれるのは覚悟の上だろう!?」
「中和させるくらいなら はじめから食うなあ」

気がついたらやっぱりみふゆはいなかった[*2]

ここで描かれているのは、「目玉焼きの朝ご飯」や「トンカツ定食」といった一般的記号が指示する食べ物がそれを食べる人にとって個別的なイメージへと変換される、という『孤独のグルメ』と同じプロセスである。だが、本作においてこのプロセスは複数化されている。同じ食べ物がそれを一緒に食べる各人において異なる個別的イメージ(「白身や付け合わせを黄身に絡めて食べた時の旨さ」、「キャベツは脂っこい口の中を中和させる存在」)へと変換され、その違いを認められない次郎の言動によって、親しい人と共に食べる幸せな共食の風景はあっけなく崩壊してしまう。

次郎は、しばしば幼少期の食の記憶に結びついた自らの個別的イメージに激しく固執する人物であり、その言動はギャグマンガらしく大仰で過剰に描かれている。だが、彼は、『美味しんぼ』の山岡士郎のように自分の嗜好に文化的真正性をまとわせるわけでもなく、『孤独のグルメ』の井之頭五郎のようにひとりの食事を満喫するわけでもない。むしろ彼は、みふゆの目玉焼きの食べ方を試しているように、個別的イメージに固執すると同時にそれを可能なかぎり他者と共有しようとする。だからこそ、共有に失敗すると激しく感情を爆発させるのである。

次郎に比べれば温和に見えるヒロインのみふゆにもほぼ同じことが言える。度重なる次郎の暴発に疲弊した彼女は次郎と別れて先輩芸人と付き合うようになるが、彼は食に全く興味のない人物だった。彼女は喜んでもらおうと手料理をふるまうが「お前は一緒にメシを楽しく食べてくれる人と付き合うのがええ」と言われて破局する。彼女は次郎と再会し、コンビを組む芸人・千夏と三人で居酒屋に入るが、豆腐に魚や野菜のはいった湯豆腐鍋に次郎は再び激怒する。彼にとって、湯豆腐というものは昆布を敷いた鍋に豆腐のみを浮かべてタレと葱と鰹節をいれた中子(なかご)を鍋の中央におくものだったからだ。次郎は、中子に漬けて味が染み込んだ豆腐を白飯にのせて「かっこむのが最高にうまいんじゃないかあっ」と叫ぶ。千夏は呆れるが、みふゆは「それ…おいしそう! その食べ方だと充分おかずになるわ!」と言い、一緒に湯豆腐を食べようと次郎の部屋に向かった[*3]

再びみふゆと付き合うようになった次郎は、彼女の部屋で食べ残したバウムクーヘンの一番外側の層をみつけて食べてしまい、激怒したみふゆに「でていけ!」と追い出される。次郎が友人の服部に相談すると、彼女はバウムクーヘンの各層からカステラ底部の薄紙までなんでも剥がして食べる「剥がし魔」かもしれない、と言われる。次郎は、服部が指定した「剥がし魔」が好むお菓子を持参してみふゆに会いにいくが、彼女の食べ方は普通だった。安心した次郎は菓子を持参した理由を話すが、みふゆは確かに自分は剥がし魔だと告げ、恥ずかしい行為だと知っているから人前ではやらないだけだと語る。

「やるのは独りの時だけよ…」
「あたしは独りっこだったし両親が早くに離婚したから」
「食事は独りの時が多かったの…」
「寂しい食事を紛らすために食べ物いじって遊んでたのよね」
「アーモンドチョコなんて ひと口で食べると あっとういう間に終わっちゃうでしょ?」
「だけどチョコ部分を少しずつ剥がしながらだと」
「ゆっくりと時間をかけて楽しめるの…」
「それが今でも続いている…」
「それが剥がし魔だと言われたら否定できないわ」

彼女は、いつも真っすぐに「本当の自分でぶつかってくる」次郎の前でも自分は本当の自分を隠して演じているのだと言い、大粒の涙を流しながら「ごめんさい!!」、「剥がし魔でごめんなさい!!」(普段の彼女は前髪で片目が隠れた姿で描かれるが、このコマでは両目が描かれる)、「もう剥がさないから!!」、「独りにしないで!!」と叫ぶ。次郎は「俺の前では本当の自分でいて欲しいんだ」、「だから剥がしてくれ!」と応え、みふゆは笑顔をとりもどして「うん!」と言う[*4]

このように、みふゆもまた自らの個別的イメージに固執しながら、それを他者と共有したいと願っており、だからこそ共有の失敗を恐れて自分を装いがちになる。「本当の自分」をさらけ出すことを厭わなくなった彼女と次郎は、クラフトビールに挑戦したり、蕎麦を塩だけで食べる経験を重ねるなかで二人が生きる現実を拡張していく。繰り返し次郎は暴発し、みふゆも困惑するが、二人は互いの個別的イメージを認めながら、共有できるものは共有するような関係を育んでいく。みふゆはお笑いコンビを解散して女優として活躍するようになり、次郎は着ぐるみショーを運営する会社の正社員となってみふゆにプロポーズし、さらにコンプライアンスへの配慮によって改称された「らぶフラワー」実写版の主演を次郎が務めることが決定されるなかで二人は結婚する。

結婚式のコース料理の最後、参列した親族や友人たちにコンロで自由に焼ける目玉焼きと白飯が供される。次郎は、みふゆとの初めての朝のエピソードを語り、次のように続ける。「当時の私は自分のやり方こそが常識でそれ以外は非常識という考えを持っておりました。今思えば なんと愚かな考え方だったでしょう。一人として同じ人間はいない――育った環境 出会ってきた人 見てきたモノ 違うのが当たり前なのに私はそのことに気が付かずに…多くの人を傷付けてしまいました。しかしその違いを受け入れ 認め合うことで人は人を愛せる[……]そんな私の考えを変えるきっかけとなった目玉焼きを皆さん思い思いのやり方で召し上がって頂きたい そしてその食べ方を分かち合いたい…[……]お互いがお互いを尊重し合い 違いを否定せず いいところは受け入れる そうやって共に支え合って成長していけるような家庭を築いていけたらと思います そしてそれを伝えていきたい 私達の――子供にも 本日はありがとうございました」[*5]

抱腹絶倒のギャグマンガとして展開された本作は、最終話に至って、海原雄山の「至高のメニューの中の至高の料理」にも引けを取らない次郎の感動的なスピーチにたどりつく。恋人と一緒に様々な食の世界を探求する「拡張=現実」は、お互いの個別的イメージをすりあわせることを通じて、愛しあう夫婦と子供が幸せに暮らすありのままの「日常=反現実」へとつながっていく。しかしながら、このプロセスには個別的イメージのすりあわせとは異なる要素が混入している。それは、結婚を控えた次郎が「正しい食器の配置」や「正しい箸の持ち方」を学ぶというエピソード(6話分)である。

偶然再会した初恋の人・志岐カオルに「結婚するなら箸の持ち方を直した方がいい」、「子供をきちんと躾けられるように箸は正しく持てるようになるべきじゃないかしら」と言われた次郎は、努力を重ねて正しく箸を持てるようになり、米粒をつまんで綺麗に食べる快感に目覚め、「世界がひらけた!」と破顔する[*6]。この台詞はマナーの習得を現実の拡張であるかのように語るものだが、それは明らかに無制限な拡張の一つではなく標準化された作法への依拠であり、それによって次郎たちが生きる「拡張=現実」は幸せな結婚生活という「日常=反現実」へと接続することを許される。

各人がそれぞれの個別的イメージをもとにして現実を拡張していけば、当然、集合的な秩序は攪乱される。「拡張=現実」の促進は、それに秩序を与える標準的な媒体を要請する。「どくフラワー」が「らぶフラワー」に改称されたように、SNSを通じた個々人の自由な発信と受信が可能になった現在、対面する他者ではなく不特定の誰かが著しく不快な思いをしたり深く傷つくかもしれないという、形式的に考えれば決して否定できない理由(「コンプライアンス」や「ポリティカル・コレクトネス」)によって「炎上」と呼ばれる非難の連鎖が生じ、それを避けるために発信内容は自発的に限定される。そうした話題を避ければ対面の会話と比べてはるかに自由で多様な発信が可能だが、字数制限や引用RTという標準化された形式を守らなければ発信できず、その条件下で注目を集めやすいように発信内容は自発的に定型化されていく。

「拡張=現実」において創出されると同時にそれを支援し限定する標準的な媒体を「標準=現実」と呼ぶことにしよう。それは、個別的なイメージ(愛着ある箸使い、漠然とした自己イメージ)を一般的な記号(「クロス箸」、就活時の「自己分析」)に置き換えることで各人の多様なイメージの追求を促進しながら暗に統制する媒体であり、かつての批評用語で「アーキテクチャ」と呼ばれた審級のあられもない後身である。実際、次郎が正しい箸の持ち方を学ぶことも、みふゆが先輩タレントの独特な箸の持ち方を注意して彼が激怒したことがSNSで炎上する挿話と並行して描かれることで暗に正当化されている。近年SNS上の企業アカウントでしばしば採られている「中の人」が垣間見える発信のあり方もまた、一般的記号によって構成される宣伝文句が企業を構成する個人の個別的イメージによって裏打ちされることが好まれるようになってきた例として捉えることができるが、「中の人」の個別的イメージに基づく個人的主張が突出しすぎるとコンプライアンスという「標準=現実」に依拠して非難の連鎖が生じうる。

『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』は、個別的イメージの激突とすりあわせという「日常の時代」を生きる私たちの困難と愉楽を鋭く抉りだしている。だが、その営みが不可避的に創出する標準的媒体と私たちはいかにつきあうことができるのだろうか?

  1. おおひなたごう 2014『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(1)』KADOKAWA、13頁。Back
  2. おおひなたごう 2014『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(1)』KADOKAWA、34-36頁。Back
  3. おおひなたごう 2015『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(5)』KADOKAWA、44-56頁。Back
  4. 前掲書、99-105頁。Back
  5. おおひなたごう 2019『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(12)』KADOKAWA、136-144頁。Back
  6. おおひなたごう 2018『目玉焼きの黄身 いつつぶす?(10)』KADOKAWA、61頁。Back