写真家とは何をしている人たちなのか|ディスカッション関連ブック+コメント
Text|西澤諭志、金川晋吾、かんのさゆり
Whenever Wherever Festival 2026 オルタ “ナラティブ”とliving space(s)
「living space(s)」(2026年2月7日−2月8日)より|Photo: Hideto Maezawa
ダンス/パフォーマンスフェスティバル「Whenever Wherever Festival 2026(以下、WWFes2026)オルタ“ナラティブ”とliving space(s)」で、三人の写真家、西澤諭志さん、金川晋吾さん、かんのさゆりさんによるディスカッション「写真家とは何をしている人たちなのか——自分たちが何をしているのかを考える」が2026年2月8日に行なわれました(会場:SHIBAURA HOUSE、東京都港区)。同会場で、その関連選書コーナーを設置し、三人それぞれがディスカッションの補助線となる書籍を1冊選んで寄せたコメントを展示しました(2月7日−8日)。以下にそのテクストを掲載します。
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WWFes2026のSHIBAURA HOUSEでの2日間のイベントは、「オルタ“ナラティブ”とliving space(s)」をテーマに、公募とアーティストによるそれぞれの企画が共存し、複数の出来事が同時に進行する形式を、さまざまな生活背景を持つ人々が生息する空間=living space(s)に見立てて実施。そうした雑多な場との影響関係から生まれる、人々の振る舞いや態度の微細な変容を観察することで、オルタナティブ(別様)なナラティブ、物語り・語り方へのヒントを見出そうとして開催されました。また、12回目となるWWFesはこれまで、アーティスト同士が自ら企画をおこなうことで、自身の創作の環境自体を省みてエクスチェンジする実験性を重視してきました。
ディスカッション企画「写真家とは何をしている人たちなのか——自分たちが何をしているのかを考える」は、まさにその延長上にプログラムされました。写真家同士が、自分たちが意識的・無意識的に依って立つ場や言語のあり方を問い直し議論することは、ダンスなど直接の身体実践を伴わないながら、きわめて身体的な実践と捉えられるのではないかと考えたのです。そしてそのことは、フェスティバルが近年取り組んできた風景というテーマとも繋がっているように思えました。
また、フェスティバル会場での実施の前に、プレトークがアーティストから発案され、筆者も参加するかたちで2度、Xのスペースで行ないました。プレトークでは、ディスカッションへ向けて、三者の意見は異なるものである(一つの結論のようなものは出ない)という前提で、テーマをどのように掘り下げるのかの進め方を同時に探るかたちで進行しました。
2月8日のディスカッションは、プレトークで展開された写真の定義や価値基準は自明のものなのかなどの問いを引き継ぐかたちで、西澤諭志さんによる基調発表があり、続いて三人でのトークに移りました。西澤諭志さんからは、写真家とは視覚の更新をおこなうものであり、その認識はとりわけ繰り返し撮影する行為と不可分に形成されるのではないかという提言のもと、メディアにおける視覚の更新、そして写真家におけるそれがどのようなものであったのか・ありうるのかが語られました。そしてエドワード・スタイケン編『人間家族』(新倉俊一訳)、周婉窈著『図説台湾の歴史』(濱島敦俊監訳)、ベルトルト・ブレヒト作『Kriegsfibel(戦争案内)』(未邦訳)をとりあげ、写真を「並べる」ことで働く同質化と差異をめぐる力学について問題提起があり、写真に付随する言葉もまた俎上に上げられました。
金川晋吾さんからは、信仰を主題に写真を撮る難しさと、文章を書くことで突破口を見出したことなどの発言がありました。かんのさゆりさんは、写真家の考えていることや「思い」や「気持ち」は写真に写らないが、撮影した条件は示すことができるなどの制作する上での態度について言及しました。(五月めい|WWFes2026共同キュレーター)
写真家とは何をしている人たちなのか
——自分たちが何をしているのかを考える
写真家が「写真」という言葉を発した時、実はそこに様々な排他的力学が働いていると思う。即ち、その写真家にとっての純粋な「写真」を成立させるために、不純とされる要素を写真でないとし、排除、または下位に位置付ける。それは例えば写真を説明するために添えられる言葉。あるいは「作品」にはならない家族アルバムの写真、レントゲンや宇宙望遠鏡によって生成された科学写真、SNSを通じて世界中の人々を惹きつけた写真等々。何を周縁に追いやるかは写真家によって異なるとはいえ、「写真」に常時包括的な意味を持たせて用いることは極めて難しいのだ。
ということはつまり、写真家が誰かと写真について語っている間中、常にこの「写真」の定義を巡るディスコミュニケーションが生じているはずなのだ。
こんな摩擦を受け入れながら、写真家である自分たちがやっていることは一体何なのか、そもそものところから素朴に考えたり話したりしてみたい。(西澤諭志)
選者:西澤諭志
緒川直人、後藤真 編
『写真経験の社会史——写真史料研究の出発』(岩田書院、2012)
しばしば写真を見る際、先入観を排して画面に写っているものだけを隅々まで観察することが奨励される。そうしなければ、一般的な常識の範疇で「きっとこんな写真」と決めつけてしまい、そこに写っている様々なものごとに気付けず見落としてしまうからだ。私も本当にそう思っている。
では画面に写っているもの以外の様々な情報や、写真の周辺で起こる——時には偏見も含まれたかもしれない——人々の営みは、誤謬の原因でしかなく極力排除すべき不純なものなのだろうか。
長年写真と付き合ってきて、純粋に画面だけの情報を頼りに写真を読み解いているような感覚に陥った時こそ、誤謬との背中合わせを警戒するようになった。つまり、私が「純粋」で「公平」な観察者でいることを正当化させるためには、自分たちが生きている社会の諸制度の中で「不問に付して良い」と考えている部分に目を瞑り、その写真をめぐる人々の営みに無意識の序列をつけ、一方を周縁に追いやらなければならない。そうしなければ「純粋」でも「公平」でもいられないからだ。何をどのように「見る」かは常に政治的な選択であって、その闘争は往々にして画面の欄外で為されている。
世界中の、時代も様々な有名・無名の写真に接することができてしまう状況だからこそ、素直に「この写真は、どこで誰が写って、撮ったのは誰で、何に使われ、何が起きたのか……」とその写真の傍にいる人々に尋ね、その歴史に耳を傾ける。そうでもしなければ、世界のほとんどを素通りしてしまう気がする。そんなことではわからなさで自分が変わってしまうために写真家を続けてきた意味がない。
本書では「写真経験」として、個人の私的な書き込みや思い出の集合が「想像の共同体」としての「地域社会の〈近代〉」を出現させる家族アルバム(有馬学)、明治の民権家が自己演出のために撮った「政治写真」(緒川直人)といった、撮影者の自己表現という枠組みからこぼれ落ちる様々な写真の使用法やその可能性を読み解く。特に「写真家」という職能に憧れを抱いている私のような人間には、本書の「写真表現と写真史の1970年代」(戸田昌子)から読んでみて欲しい。私たちが漠然と抱いている写真家像も、70年代の「写真の歴史的主体」をめぐる政治的闘争から形成されていった特殊なイメージでしかないことに気付かされるだろう。
選者:かんのさゆり
山田太一
『山田太一セレクション 早春スケッチブック』 (里山社、2016)
この本は数々のテレビドラマの脚本家として活躍し、2023年に亡くなった山田太一の脚本を書籍化したもので、『早春スケッチブック』は1983年に放送されたテレビドラマです。山田太一といえば他のドラマを代表作として思い浮かべる方がほとんどかもしれないし、なぜ写真家を名乗る者(かんの)がこのドラマ脚本をお薦めするのか?と疑問に思う方もいるかもしれないですね。本当はドラマの映像を見てもらえればいいのですが、現状、配信サービスなどでは山田ドラマの鑑賞はかなわないので(大変大きな損失です)私は隙あらばささやかにこのドラマの凄さをいろんな場で語っていこうと目論んでいます。
「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」
高みからこの言葉を放つ男(元写真家)が劇中に登場します。「ありきたり」とは何か。それは価値の無いものか?回を重ねるごとにこの疑問は大きくなって、最後には視聴者自身の価値観にまで揺さぶりをかけて来るのです。
写真表現のことに引き寄せて考えれば、政治の熱い季節には写真家や批評家は学生運動や社会運動を熱心に追い、そこで生まれた作品を評価し、その後の政治的な凪の時間には自分の生活の延長線上で被写体を見つけ、作品をつくる者への厳しいまなざしがあったように思います(中平卓馬、多木浩二らによる午腸茂雄作品への批判など)。
『早春スケッチブック』にはありきたりなものを無価値であると切り捨ててしまうのではなく、そう決めつけてしまう自分をこそ越えていこうとする人々の葛藤が描かれており、私は観るたびに勇気を貰います。ひとりでも多く、このドラマが気になり鑑賞する人がいてくれるといいなと思い、この本をお薦めします。
選者:金川晋吾
田代一倫
『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』(里山社、2013)
それまで何かをしていた人たち、あるいは何もせずにただそこにいた人たちが、それをいったん中断して、写真に撮られるためにポーズをとっています。写真を撮ったり撮られたりすることの自明でなさ、不自然さ、おかしさみたいなものがこの本では露わになっていて、だからこそ、撮られている人の姿、「自分にカメラを向けているこの目の前の人が一体何者なのかはよくわからないけども、自分のことを撮りたいという目の前の人に何らかの応答をしよう」としているその姿が、とても魅力的なのだと思います。
写真には短い言葉が添えられています。言葉と写真の両方を読むことにより、「写真にはこんなにもいろんなものが写っていないのか」という驚きと「写真にはこんなにもいろんなものが写っているのか」という驚きの両方を経験します。
この本のなかには453枚もの写真がおさめられていますが、453枚の写真はどこまでいっても断片の集積にしかなっていなくて、見終わったあとにも、途中経過を見た後のような、おさまりの悪さが残ります。でも、そのおさまりの悪さは、2011年3月11日以降の三陸、福島を撮ることに対しての、田代さんの真摯な態度のあらわれなのです。
写真と言葉それぞれの領分に誠実に向き合った作品だと思います。
西澤諭志|Satoshi Nishizawa
写真家/映像作家。カメラで記録した身辺の映像から、細部の社会的、経済的な側面へも目を向けるための作品を発表。主な展覧会に、「西澤諭志 個展「1日外出券」」(YAU STUDIO、2025)「クリテリウム98 西澤諭志」(水戸芸術館現代美術センター、2022)、「Parrhesia #013 西澤諭志[普通]ふれあい・復興・発揚」(TAPギャラリー、2018)。近年は、国内外の実験的な映像作品を紹介する上映団体「Experimental film culture in Japan」、ブレヒトのフォト・エピグラム『戦争案内』 の翻訳刊行を目指す「『戦争案内』研究会」のメンバーとしても活動。
金川晋吾|Shingo Kanagawa
写真家。1981年京都府生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。主な著作、『father』(青幻舎、2016)、『長い間』(ナナルイ、2023)、『いなくなっていない父』(晶文社、2023)、『明るくていい部屋』(ふげん社、2024)、『祈り/長崎』(書肆九十九、2024)。近年の主な展覧会、2022年「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館、2024年「現在地のまなざし 日本の新進作家 vol.21」東京都写真美術館、「つくりかけラボ16 知らないうちにはじまっていて、いつ終わるのかわからない」千葉市美術館 、2025年「ある日」座間市役所。2026年、国立国際美術館「プラカードのために」に参加。
かんのさゆり|Sayuri Kanno
写真家。宮城県出身、在住。東北芸術工科大学 情報デザイン学科 映像コース(現 映像学科) 卒業。2000年代初頭からデジタルカメラで制作をしている。近作では自身の暮らす地方の住宅地を中心に、暫定的で仮設的な風景を主なテーマとして撮影を続ける。近年の主な展示:日本の新進作家 vol.21「現在地のまなざし」東京都写真美術館 2024年、T3 Photo Festival TOKYO 2022 など。2001年から自身のウェブサイトで継続的に写真を公開している「白い密集」http://sayurikanno.com
Whenever Wherever Festival 2026
オルタ “ナラティブ”と living space(s)
2026年1月28日(水)-2月8日(日)
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主催:一般社団法人ボディアーツラボラトリー
助成:(公財)港区スポーツふれあい文化健康財団〔Kiss ポート財団〕、アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成(単年助成)]芸術創造活動
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Photo: Hideto Maezawa






