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Whenever Wherever Festival 2026 オルタ “ナラティブ”とliving space(s)
「living space(s)」(2026年2月8日より)|Photo: Hideto Maezawa

Whenever Wherever Festival 2026レビュー

1.

Whenever Wherever Festival(WWFes)、つまり「いつでもどこでもお祭り」にはいくつかの論じるべきことがある。野暮を承知でまずはこのことについて考えたい。1つは、あることがらが「いつでもどこでも」成立するのならば、それはそのことがらの固有の性質とは認めにくく、取り立てて考える必要が乏しいこと。もう1つは「いつでもどこでも」でない場所・時間はあるのか、ということである。
 まずはことがらの固有性から考えよう。ある集団のメンバー全員が、たとえば「りんごが好き」ということがわかったとする。この事実が判明した当初はその偶然に盛り上がり、集団の結束力も高まるかもしれない。しかし、検討すべき特性としてはすぐに取り沙汰されなくなる。真剣な議論が必要なのは、りんご好きとバナナ好きの2派が存在するときである。ある集団や集合における、本質的な固有性とはこういったものである。数学でいえば、ある数の集合Xの要素aに関して「aは数である」と述べる必要はない。なぜならそれは「数は数である」というトートロジー以上のものを示さないからだ(もちろん、先の「りんご好き集団の高揚」のようにトートロジーに意味が見いだせるときもある)。
 つまり論じるに値する性質には、そうでないケースや、認否が明らかでないケースが必要がある。「そうでない」の「ない」や「認否」の「否」、つまり否定形で表現されるケースを要するということだ。なるほど確かにお祭りはいつでもどこでも行われているわけではない。いつでもどこでもお祭り! あるいは、そうあるべき! という主張は、ややもすれば白眼視されかねない。WWFesが「いつでもどこでも」性とどう対峙するのか。これが先の2つめの論点である。
 これらの問題を見極めるため、ある性質Pの否定をnot Pと表したうえで、not (not P)について考える。これは「反対の反対の意見」「コインの裏の裏」などの形式化である。一般に、これらがそれぞれ「賛成」「表」になることを鑑みれば、not (not P)=Pとなるのが自然と思えるだろう。論理学の言葉を使えば「二重否定の除去」、これはnotが2つ重なればないのと同じということを指す。
 この二重否定の除去を認めると、あらゆることがらで「こちらかあちらか」になる。「りんごが好き」をPとすればnot Pは「りんごが好きでない」、そしてnot (not P)は「りんごが好き」になり、こうして「りんごが好きか好きでないか」が完成する。あらゆるものをくるっとひとくくりにし、そこを横切るように線を引けば、線のこちら側とあちら側を明確に分けられるというわけだ。「敵か敵でないか」「ダンスかダンスでないか」「身体か身体でないか」、そして「お祭りかお祭りでないか」。

本当だろうか。

2.

東京が大雪にみまわれた2026年2月の日曜に、WWFesの会場を訪れた。降雪と寒さで緊迫した室外と、人の営為直前がかもしだす緊張めいた室内を隔てるのは、2面の大きなガラスの壁のみ。初見の方ばかりのときに私が行いがちな、空間すみずみを視線でサーチするいつもの行いもそこそこに、プログラム開始の時間となった。

手前:朝井裕介
《廃材を使って自由に
作品を作ろう》

はじめに参加したのは藤村港平《ドローイング&ダンスワークショップ 線で脳が死ぬダンス》である。視線サーチの不足で空間にまだ馴染めていない私は、そのうえドローイングにもダンスにも心得がない。不利な状況である。ただし、日常的にペンと紙は使うし、左右の手を交互に振りながら手とは逆の足を出しながら歩く程度のことはできる。道具はそろっていた。
 紙面という平面に正面から相対して、線を引くことに集中したのはいつ以来だっただろうか。「自分の行動に自覚的になる状態」といった意識の簡単な定義に従えば、意識が芽生えてから初のことといえそうだ。純粋に線を引くのは心地よかった(しばしば頭の中でエアロスミスのDraw The Lineを鳴らしていた)。右手で引き、左手で引き、筆記具を変え、握り方を変え、私の体の外側に躍り出た筆跡という名の痕跡を味わった。足先でできないかと試し断念し、両足を使ってもなおできないことを確認した。ここに至り、ドローイングとダンスの接合を感じ取れた。ラップバトルならぬドローイングバトルをして、輪郭は不明瞭ながら一定程度は認めている「自らの意識」と、よりままならない「自らでない意識」との交流を経験した。

藤村港平
《ドローイング&
ダンスワークショップ
線で脳が死ぬダンス》

杉本音音
《Phoreography》

ふとしたふいを見透かされたのか、となりのグループの人に話しかけられ、そのままそのプログラムに心身を移した。杉本音音《Phoreography——みんなでちょっとずつ、振付譜を作って踊る》である。企画者の杉本から託されたのは、プリンタ付きのトイカメラで撮影し、粗いモノクロで印刷したばかりの4枚のダンスの写真を、前菜、メイン、デザートといったコース料理に見立てて並べるというものだった。1分ほど検討したのち、その案を伝えると、杉本や参加者は小さな歓声を上げた。曰く、直前に皆で考えた通りだという。様子をつかみかねながらその場にいると、今度は踊れという。ただしその要件は、同じく直前に誰かが踊った1組4枚の写真をお手本に、というものであった。さらに重ねて曰く、写真のあいだを「補完」してよいという。初めてきた場所、あまりしない参加型のプログラムに心身の自認がおかしくなっていた私は、それが先のコース料理の写真群と同じかどうかも判然としないまま、尻込みせずに体を動かした。今思えば、視線による空間把握をしすぎなかったのがよかったのかもしれない。
 ここには、2つの「補完」がある。正確には、補完の前提になる「不連続」がある。1つめの不連続は手本となる写真のあいだの不連続である。[*1]
 2つめの不連続はプレイヤー間の不連続である。私がダンスやプロセスの生成に突然放り込まれたように、各々の参加者は綿密な設定やルールのもとに参与するわけではない。各プレイヤーがそれぞれの認知のもとに、あるいはその認知を変えながら参与を続ける。この状況は、参与者の行動や発言を把握し尽くすことのない、そもそもそう企図しているわけでもないであろう杉本においても同様である。
 私が、写真と写真のあいだにわずかな自律性を忍ばせ、転倒しない程度には破綻なく動けたのは、重力や慣性など物理的性質のおかげだ。なめらかな曲線は見えないほど短い線分の集まりであり、不自然で大きな力をかけない限り線分の集まりはひとつづりの曲線になる。対照的に、このプログラムのもう半分の構成要素として杉本が、1つひとつの写真に切り分ける前のロール紙をまといながら踊るそのなめらかさは、杉本の人為による。コマとコマのあいだ、プレイヤーとプレイヤーのあいだ、2つの不連続に対する杉本のアンサーを私たちは感じ取る。

同時に複数のプログラムが走るイベントや展示において、それらのプログラムの空間的密閉性は担保されるのが通常であろう。この設定は、本フェスにおいては積極的に放棄される。この2日目において、それをいちばん象徴していたのはAokid・青柳潤とワークショップ参加者による《シームレスに展開するショックノー!(職能)——ライブを生きる身体となんか応援する感じ》である。階上に蠢きを感じたほどなくのち、爆音とともにダンス集団が降りてくる。無遠慮と配慮の両方をにじませながらプログラムに取り組む者々にアクセスするそのさまは、まさにliving space(s)の面目躍如であった。やや定型句的ながら雪の室外にも躍り出て、部屋の内外の人々の耳目を集めたが、午前に並行して行われていたプログラムの1つ、朝井祐介《廃材を使って自由に作品を作ろう》に参加していた小さな子どもが、全身を硬直させながらもその目に恐れや違和感を生じさせなかったのは、Aokidらのバランス感の賜物であろう。神出鬼没に現れてはプログラム間の横串となり、living space(s)のテンポラルな全体性の担保として十分に機能していた。

Aokid・青柳潤 ほか
《シームレスに展開する
ショックノー!(職能)》

3.

同時進行の3つのプログラムが撤収し、長く住んだ自室の引っ越し前夜のように空間が拡がった。そのスペースに現れた福留麻里×時里充は、身体の伝達デバイス化を試みる。福留の肘に固定した、片目で覗き込むタイプの小さいスクリーンに映った映像は、覗きこんだ鑑賞者だけに提供される。と同時に、福留のフィジカルの動きに導かれる鑑賞者と福留双方の居心地のよさ・悪さが、その様子を見つめるその他の者のコンテンツとなる。イベントではほぼ自明で必須の要件である「鑑賞」の、そのベゼルのみを観るといった塩梅だ。この過程で私たちは、鑑賞するコンテンツとは無関係、取るに足らないと思ってしまいかねないモニターアームや三脚などの物理デバイスの前景化に成功する。思い切って言ってしまえば、これらの支持体は鑑賞の行為や技術を支える身体である。コンテンツと支持体のあいだにクリアに線を引くことは可能なのだろうか、といった疑問が浮上する。

引っ越し直後にまた引っ越しするように、再びがらんとした空間に登場したのは花形槙×吉田萌である。余談めくが、パフォーマンスが始まる前に花形が熱心にPCやモニタ、小型カメラの設定をするそのさまは、引っ越し後になにはなくともまずテレビ、のような感じで、その様子も絵になった。
 それらのデバイスを使って花形は、自らの舌を小型カメラで接写し、その映像を装着したヘッドマウントディスプレイで自ら確認しつつ、背後のモニタでその場にいた者々に披露する。そういえば舌を随意で動かすのは難しいことを納得できるほどに、大きく映し出された花形の舌は静止していられない。その不随意的な微動もあり、ほぼ内臓を見ているような感覚になる。また花形によると、ヘッドマウントディスプレイを経由した視点では「眼をなめているような感じ」という。
 モーリス・メルロ=ポンティの触れる・触れられるの両義性を想起させる、この入り組んだ見る・見られるの状況を一層複雑にするのが吉田である。「お願い」と称して曰く「自分の舌を指で触ってほしい」と言い残して吉田は、ちょうどしつらえたかのようなデッドスペースに消えていく。オーディエンスは、ひとり、またひとりと吉田の前に移動し、列を作った。
 内臓の末端である舌の映写や、非日常的で秘めやかな接触は、プライバシーの積極的な開放でもある。しかもどちらも鋭く身体的、精神的である。このような体験を通して私たちは、ダンス=身体を人目にさらすことの原義に触れる。

福留麻里・時里充
《肘シアター》
ショーケース
「when where living
performance(s)」
(企画:西村未奈)より

花形槙
《舌を見る》
同前

吉田萌
《わたしと舌で
タッチしましょう》
同前

青い食べ物は奥まったエリアでひそやかに待機していた。青い食品が食欲を失わせるというのはよく知られた事実である。それをこの場で実食させるという西村未奈《青飯ワンダーの怪》は、通常ならば立ち入ることのない温泉旅館の厨房で、つまみ食いをする宿泊客のような気分にさせた。選んだ青いワンスプーンを口に運ぼうとするとき、確かに一瞬の躊躇が生じた。それを乗り越え、口に入れて最初にやってきた味覚には違和感があったが、コンマ何秒かで変化した。美味である。舌が先入観のない仕事をしたということだろう。「自身の正しさを、自身では証明できない」数学よろしく、「自分では自分が見えない」私たちの、そのひとつが舌である、というのはつい先ほど花形と吉田に示唆されたばかりだ。口に入れてから連続的に味の感覚が変わる体験とその自認は、花形、吉田、西村が繰り出したliving space(s)の合わせわざである。

西村未奈
《青飯ワンダーの怪》

4.

1階のワンフロアでは再びプログラムがパラレルに動き出した。そのうちの1つ、西澤諭志・金川晋吾・かんのさゆり《写真家とは何をしている人たちなのか——自分たちが何をしているのかを考える》では、この3人の写真家を中心に、多くのオーディエンスが互いの声を聞き逃さんばかりに小さな円陣になり身を寄せている。
 西澤によると写真家とは「シカクを更新する人間」であるという。音声によるやりとりであったため、プログラムの最中は「シカク」が「視覚」と「視角」のどちらを指しているかを把握できずにいたが、どちらでもありえたし、そもそもどちらでもいいのかもしれない。新しいカメラや撮影機器の登場、スマートフォンやSNSなど伝播メディアの更新など、写真周辺の技術や文化のアップデートに伴い、写真家は撮り方が変わるだけでなく、その役割も変化してきたと西澤は語る。写真の見せ方によっては、異なるものを同じと見せてしまったり、または逆に、同じものを異なるものと見せてしまったりする。異同の決定やそれに続く分類は、先に論じた「りんごが好きか好きでないか」の線引きそのものである。「こう見てはならない」や「この見方は代えたほうがいい」のような意志をもつ写真家は、外界から認識を構成する感覚器の1つとしての「視覚」と、その有効な枠組みや方法としての「視角」の双方の更新者となるだろう。
 そのような意志のもとでは、作品タイトルなどの文字情報が俎上に載ってくる。見たありのままを伝えるのではなく、その意味をも伝えるためには文字でもなんでも使うということだ。文字も視覚情報の1つであるが、いったんその文字の視覚的側面を棚に上げ、意味作用にのみ注視すれば、写真表現は視覚を含む五感すべてによる伝達という側面を得る。
 意味作用の担体としての写真を考えると、たとえば付されたタイトルは写真の一部かといった「どこまでが写真か」という問題にたどり着く。つまり平面的な視覚情報とそれが指し示す意味のあいだで、どこまでを写真とするかという問題である。この問題は、ダンスとその指し示す意味のあいだで、どこまでがダンスかという問題と同型である。情報を担う存在を「身体」、情報を授受する存在を「意識」あるいは「心」と既定すれば、写真においては平面に写された図像が、ダンスでは踊り手の肉体が「身体」ということになる。こうして私たちは、WWFesで写真や写真家をテーマとすることの妥当性に到達する。写された図像、肉体の動きはどちらも意識の対岸にあるというわけだ。
 冒頭の議論に照らし合わせれば、これは写真そのもの、あれがダンスの意味、といった主張はさほど有意義でないということになろう。不可避的な不確実性をいったん宙吊りにして、写真やダンスをそれら表現における身体とすれば、とどのつまりは「どこまでが身体か」という頻出の問題に接していることにほかならない。これが身体である、あれは身体でない、と、素朴に言い切ることが得策でないことと同じである。十分に理解していて無謬と思っていた自らの身体の中に、コントロールの効かない舌という、花形の表現を借りれば「エイリアン」を私たちは宿している。無意識にしている「ペンで線を引く」ということにさえ再発見の余地があった。線を引くことにより世界を分節して理解する。いや、それ以前に結果としての線を引く能力についても考えなければならない。このように、十分に理解済みで、世界の記述の仮定としている身体にさえわからないことがあった。わからないものとした向こう側はさらによくわからない。ディスカッションの最中、かんのが写真の意図を指して「でも写らないんだよね」と言ったこととこれは無関係ではない。意図を写したというのは原理的に不可能ということだ。くるっと円を描いてその内側を写真表現とするとき、その円を二分するような線を引き、一方を「写真そのもの」、もう一方を「写真による意味」と峻別できないというのが、その意味である。峻別できるという主張はすなわち二重否定が除去できるということであり、それができるのであれば先の「どこまでが写真か」という問題は解決している。これは忌むべき状況ではない。むしろこの認識のもとで活動することが望ましい。WWFesはこの状況を是認する時空間である。

西澤諭志
金川晋吾
かんのさゆり
《写真家とは何を
している人たちなのか》

手前:飯塚大周
《「ヒトの踊り」と
「踊るヒト」を
描きまくろう!》
-
中央:喫茶みつる
《脳震盪/
Absolute Ego Dance》

5.

私たち1人ひとりがそれぞれのナラティブを持つことは難しいことではないだろう。むしろ、浮かび上がるナラティブの胞子を抑え続け、ランダムに留まることのほうが難しくさえある。また、対象とする世界の可能的な全体をひとたび既定してしまえば、オルタナティブも難しくない。なぜならば、その世界で主流の、あるいは誰かががやっている「〇〇」に対して、単に「〇〇でない」をやればよいだけだからだ。さらにこの志向の者にとって幸運なことに、「〇〇」よりも否定系で表す「○○でない」のほうが多い。これは「りんご」よりも「りんごでない」もののほうがはるかに多いことから明らかだ。
 いま・ここでない世界への遷移は、マーベルの映画シリーズで描かれるようなパラレルワールドや、主人公が別の世界で活躍するいわゆる「転生もの」の中にあふれている。パラレルワールドや転生ものにおいて、実は不可欠な設定は、意識や経験を保持したまま並行世界間を横断できることである。記憶や経験が完全に消失していたら並行もなにもない。つまり、パラレルワールドや転生ものの物語が成立するためには、それぞれの独立性を担保しつつ、それらを横断するような装置が必要である。これぞまさにオルタ“ナラティブ”、living space(s)である。隣のプログラムの音量でやり取りに難渋するほどの距離設定や、それまでの文脈を無視しつつでも応援するショックノーがこれらを実現していたというわけだ。

すべてのプログラムに参加できなかったのは、ひとえに、同時には1か所にしか存在しえない私の身体性によるものとご容赦願いたい。また観たものすべてをこの小文に載せることができていないのは、別種の有限性による。これらはWWFes2026のもくろみと矛盾していないと勝手に心得ている。
 世界の構成要素を総当たり的に組み合わせる。バイアスのない、客観的・3人称的なふるまいによってそれぞれのプログラムが立ち上がった、といえば、プログラムのクレジット者たちは等しく違和感を覚えるだろう。「いつでもどこでも」のお祭りは、なかなか会えない「どこにもいなそうな」面々によって生み出された。それでも当日までに偏りにまみれた様々な没頭、非3人称的思考があったに違いない。3人称的機械論に対する、1人称的目的論の反撃といってもいい。内部に巣食う舌のことを忘れ、味覚を研ぎ澄まして味に集中する。そんな過程を経て迎えたお祭りの日だ。かといってWWFesはそういった人々にしかできないことなのか。そんなことはないと思う。ショックノーの面々が雪の大通りに繰り出し、部屋の内外の垣根を壊さんばかりに動いた直後、通りがかりの老齢の女性がその出入りの大きなガラスドアに近づいた。よく見ると、嵐のような一団が過ぎたはずみで歩道に躍り出て、そのまま放置されていたドアのストッパーを、ドアのすぐ横の適切な位置に戻していた。
 こうして祭りは続いていくのだろう。いや、そんな乾いた言い方では足りない。続いてほしい。


澤宏司|Koji Sawa
数々企画代表。博士(理学)。1994年早稲田大学理工学部数学科卒。2010年神戸大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻博士後期課程修了。同志社大学准教授を経て、2024年4月から現職。専門は数理科学、数理論理学。最近は論理と時間・空間の関係に関するモデルの研究に従事。簡単な計算を伴う全身運動プログラム「サワ☆博士の数楽たいそう」主宰。著書に『サワ☆博士の数楽たいそう』『数の辞典』(ともに雷鳥社)。好きな映画監督はポール・バーホーベン。


Whenever Wherever Festival 2026
オルタ “ナラティブ”とliving space(s)


living space(s)
2026年2月7日(土)-2月8日(日)
SHIBAURA HOUSE(東京都港区)

主催:一般社団法人ボディアーツラボラトリー
助成:(公財)港区スポーツふれあい文化健康財団〔Kiss ポート財団〕、アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成(単年助成)]芸術創造活動

Photo: Hideto Maezawa

  1. 動画によるインストラクションであればこの不連続は顕在化しにくい。ただし、毎秒何コマという動画の性質、および動いているものを動いているものそのものとして取り込むことができるのかという問題を考慮すれば、原理上は静止画か動画かは検討に値しない。数学の言葉でいえば、実数あるいは有理数の稠密性と呼ばれるものだ。なお、動きと写真(写真銃)の関係については、ブルーノ・ラトゥール+アルベナ・ヤネヴァによる論考(https://www.10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-04.php)が興味深い。Back