梅若の不在から始まる普遍的不在の開設|1
Text|郡司ぺギオ幸夫(生命基礎論)
1. はじめに
山﨑広太の新作『梅若はまだ帰らない。』[*1]の公演に招待され、その前日まで、それが墨田区の芸術祭であることを承知していなかった。世田谷かどこか、西のほう、そうぼんやりと考えていた。だからその前日、両国の辺りを一人ぶらぶらしていたのは、偶然以上のものだ。道の傍に、芥川龍之介に関する文学碑のような説明板が立っていて、彼が十八の頃までこの地で過ごしていた、と記されている。小学生の頃書いたという文章が示され、隅田川の石垣が蟹の甲羅を並べたように積み重なっている、という表現があった。
蟹の甲羅のような、艶やかな黒々とした玄武岩の石塊が、びっしりと並んでいる。汗をかいたような玄武岩の甲羅の群れは、今にも動きそうだったに違いない。火山岩である玄武岩は、冷えた熔岩が冷却、収縮して固まる時、柱状節理と呼ばれる長い柱状の割れ目を作る。柱の断面は、多くの場合六角形を成し、その六角形が並んだ様は、亀の甲羅のようだ。だから玄武岩と呼ばれる。兵庫県、皿蕎麦で有名な出石に程近い、豊岡市の玄武洞では、柱状節理が渦を巻いて見事なものだ[*2][*3]。そういうわけで、石垣は甲羅を連想させる。
その何日か前まで、私は、沖縄本島でミナミコメツキガニというカニを用いた実験をしていた。このカニは、数十から数万の個体で群れを成し、揃って前進するため、兵隊ガニとも呼ばれている。揃って前進するのは、自分の周囲にいる他のカニの動く向きに、自らの向きを合わせていくからだ。干潟に散っていたミナミコメツキガニが、ある場所に集まってきて集団ができる当初、みなバラバラの向きに歩き、集団は右往左往する。各自が周囲の個体に向きを合わせることで、バラバラの向きは揃っていき、群れは一方向に向かって前進を始める[*4]。
ミナミコメツキガニの群れがゆっくりと動いているのを見ると、マクベス[*5]を思い出す。「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」を唱えて登場する三人の魔女は、王を殺し王位を奪えとマクベスを唆す。マクベスは妻の熱烈な後押しによってダンカン王を殺し王位につく。しかし、その後、王殺しの不安に苛まれ、再度魔女を訪ねる。マクベスをおびやかす者などいない、心配ない、と魔女は言う。バーナムの森が動かない限り、マクベスは殺されない。女の股から生まれた者に、マクベスは殺せない。森が動くはずなどない。女の股から生まれない者などいない。マクベスは安心して自らを過信していく。しかしマクベスは、森が動くのを見ることになる。頭に木の枝をつけた偽装兵の集団が、城を目指して移動してきたのだ(最終的に、マクベスを討ち取るマクダフは、帝王切開で生まれ、女の股から生まれた者ではなかった)。ミナミコメツキガニが、じわりじわりと干潟を動く時、私はマクベスの心境を理解する。
周囲の個体に合わせて、動く向きを統一していく。しかしカニは、いつも向きを合わせるわけではない。ある場合は、周囲の向きに逆らい、ある場合には、他個体の間をすり抜ける動作を優先する。そのようなさまざまな判断が綜合され、群れ全体は方向転換をし、散開し、一斉に砂に潜り、群れは消える。つまり、カニたちは、各々、向きを合わせるか否か、周囲の状況を知覚し判断している。現在の状況に応じて、以前の記憶を想起し、アップデートし、記憶を形成=再形成して判断する[*6]。形成は常に再形成である。この間断のない判断にあって、記憶と想起は同時に実現されるに違いない[*7]。
記憶形成と想起が同時なら、今みて記憶されようとするものと、想起されるものは分離できない。その強烈な非分離性の坩堝がデジャブであろう[*8]。初めて見たのに懐かしい。いま初めて記憶されるべきものが、想起されたものという感覚を伴うわけだ。いや、デジャブの底の抜けた感覚は、「記憶であり想起である」以上のものだ。デジャブは、記憶されるべき「この現在」でも、想起された「あの過去」でもない。記憶でも想起でもないことで形成される「時間の不在」なのだ。
通常、この「時間の不在」に、外部が飛び込んで来る。外部の間断のない召喚によって時間が紡ぎ出される。時間が作り出され、時間を生きているという感覚は、不在の継起に基礎付けられている。だから、たとえそれが習慣化され、大きな傾向として何かを反復しているように見えても、突然の変化に開かれている。カニにおける、向きを揃えた行進が、突然崩れ散開し、突然分裂し、突然砂に潜って消えるのはそのためだ。不在の形成と外部の召喚の絶え間ない連続が一瞬滞り、時間の不在が露わになる。それこそがデジャブだ。
だからこそ我々は、通常、デジャブを感じない現在を生きている。絶えず時間を紡ぎ出して生きている。カニたちもそうなのではないか。記憶と想起の非分離性が作り出す不在は、絶えず外部を召喚し、時間を作り出している。だからカニたちは通常、漫然と向きを揃え、常に従うべきルールがあるように振る舞いながら、突然覆す。人間が特殊な状況に遭遇し、稀にデジャブを感じるように、特殊な状況を作り出し、カニたちにデジャブを起こさせるような条件を与えた時、ミナミコメツキガニはデジャブに対応する行動を示すのではないか。沖縄本島では、そういう実験をしていたのである。
その翌日、すなわち、公演当日。ダンスが始まって間もなく、「蟹が・・」と誰かが言い、中盤以降、ある場面で誰かが「蟹が・・」と声を絞り出す。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』[*9]にも蟹がいた、と誰かが言う。ああ、カニがつながっていく、これもまた偶然以上のものだった。
2. 死者:不在の喪失
舞台は、山﨑広太の前説から始まる。いつものように、この段階の山﨑の動きだけで、舞台への期待は大きく高まる。今回はそれに、キェ、クゥワ、的な山﨑の奇声まで加わる。それはまさに、今回の舞台を直感させるものだった。
暗がりの中、五人のダンサーが立っている。最初にセバスチャンが動き出し、怪鳥のように叫び体を痙攣させる。千昌が太ももをゆっくり回転させるように歩く。地球のティラノザウルスは、クリスマスに食べる鳥の腿のような脚を持ち、それを駆使してどっしり、どっしり歩く。千昌の動きは、反地球のティラノザウルスだ。それはゼンマイのバネのようにしなやかで、サーボモータのような前後運動ではなく、回転を生み出すモーターによって駆動されている。そのぐらい、高く上がる脚のアクロバチコは、反地球であることを思い知らせてくれる。
港平も未奈もSHIonも、いつの間にか、足を回し、寝転がったままの輪舞となる。暗がりの中、蠢く死者。ちごひきのカニがかしゃかしゃと、いや、そう言ったのかさえ、判然としない。しかしそれは地中に埋まった死者が、聞く声に違いない。全員が地中のマテリアルとして、土の匂いを感じ、滴る水を感じ、棺を這い回る虫を感じる。その情景は、折口信夫の『死者の書』[*10]を彷彿させる。
隅田川に伝わる梅若伝説によれば、京の都で高貴な生まれの梅若が人攫いに攫われ、紆余曲折を経て隅田川川辺に辿り着き、その地で幼くして亡くなる。梅若を探し続ける母が隅田川に着いたとき、その1年前に梅若が亡くなっていることを知らされる。梅若の不在を嘆く母の前に、梅若の霊がかすかに姿を見せる。梅若の霊をいかにして召喚するか、『梅若はまだ帰らない。』は、この梅若の不在を核に展開されていく。
能の舞台『隅田川』[*11]では、梅若が埋葬された塚だけが舞台中央に設えられ、その背後から子役が霊として現れる。梅若の母はそれに気づき、触れようとするが触れられない。梅若はまた塚の背後に消える。それによって、死別の絶対的な悲痛、子を失なった母親の喪失感が露わになる。
死者たちは脚を回転させる。ミナミコメツキガニですら、記憶と想起の混同から生じる不在によって、時間を作り出すと述べた。ダンスとは、身体という質料と、動きの意図としての形相[*12]を接続しようとする作用の脱色によって作り出される。脱色自体がダンスなのではない。身体と意図の間の不在、そこに召喚される、「間断なき外部の運動=時間」こそがダンスなのである。しかし、死んだ身体や、機械は、意図(それは自然界の意図であり、その環境の特殊な条件に過ぎない)との間に作用の脱色が作れない。作用は、一定の機制、決定論的規則に縮退し、質料(身体・機械)と形相(自然・環境)の間に「不在」を作り出せない。だから、そこに出現する動きは、機械的反復、回転運動を繰り返すことになる。死者は不在の喪失によって、脚を回転させる。ストップモーションのアニメ、クエイ兄弟の『ストリート・オブ・クロコダイル』[*13]では、不在(自由なネジ)を失った人形たちが、タガが外れたように腕を回転させ続ける。蘇るためには、身体と意図の間に「不在」を作り出すことが必要となる。
3.「不在」が召喚する自由な身体・自由な言葉
やがて、港平は腕で支えて体を回転、拍動させる。千昌の手足はバラバラに散開しながら、舞台を這い回る。歩きながら立ち尽くす港平は、手足が暴発するかわからない緊張感を孕んで、歩いている。突然、未奈に「SHIon」と問われ、機械油の思い出を語るSHIon。「港平くん」という呼びかけも聞こえ、いつの間にかみんな、名前を呼び合っている。独白が続いた後、SHIonは針金が自律的に曲げられ続けるように動く。スカイツリーからも何かが見ている?隙間から何かが見ている?セラミックの鎧を着ているかのような上半身と、マリオネットのようにおぼつかない足取りで激しく動くセバスチャンの下半身。
無機質な、蠢く物たちのための音の呻きが、内橋和久によって奏でられる。暗い中に浮かび上がり勝手に動く、裸足の脚や、腕は、カナ文字が自律的に動き回っているようにも見える。隅田川の現代の川辺で、彼らは、梅若を召喚しようとしている。
「形相(意図)と質料(肉体)の間に作り出される不在、そこに間断なく飛び込む外部こそがダンスである」と同じ意味で、舞台は、自由な言葉、自由な身体に溢れている。自由な言葉とは何か。言語は現実世界と接することで生成=存在するのか、それとも、現実世界と独立な自律的存在なのか、という議論は、思考が現実と共にあるから存在するのか、現実と独立に計算として実在するのか、という議論とパラレルである。現実と独立に存在する思考として、チューリング機械[*14]や帰納関数[*15]の概念が提案され、現実と独立な自律的システムである言語として、チョムスキーの生成文法[*16]が提案された。この独立性は、言葉には意味が有限の形で決定されており、だから使用可能だ、とする議論に整合的である。これに異を唱える形で、言語とは現実の中で使用されることで成立するゲーム[*17]であると唱えたのが、ウィトゲンシュタインであり、それに端を発するオースティンやサールの言語行為論[*18][*19]である。「この文は偽である」という言明は、矛盾を帰結し、言葉としてナンセンスだが、意味を忘れれば、合言葉やパスワードに使える。使えてしまうことこそ、行為遂行的という形での言語の意味と言えるわけだ。
「この文は偽である」を初めて合言葉として使うとき、その言表「わたしはうそつきだ」と、真偽が決定できないという意味(ここでは矛盾)とが付き合わされる。しかし両者が突き合わされながら、同時に、矛盾という意味も脱色され、元来の言表のアクセントや発音のニュアンスまで忘れられ、脱色されてしまう。こうして言表と意味をつなげるはずのインタフェースは、「不在」として新たな使用を待ち構えることになり、ここに行為遂行性(合言葉としての使用)がやってくる。だから、舞台で叫ばれる「蟹」は、カニと甲殻類の間に形成された不在に召喚された、外部の片鱗なのである。
言葉と意味、というとき、意味もまた、言葉である。リンゴの意味を、「食味の甘酸っぱい赤い果実」、というとき、もちろんそれは、言葉だ。だから、言語における言葉と意味を接続しようとして生まれる混同と脱色で生じる「不在」は、言葉と言葉の間に「不在」を見出していくこととなる。「不在」に新たな言葉が外部から召喚され、言葉の継起は、あたかも断絶や創発を紡ぎ出していく。ダンスが、意図と肉体の間に不在を作り出し、想定されなかった、雷鳴のような動きを召喚する様も、肉体と肉体の間の「不在」の継起と言える。なぜならダンサーにとっての意図(形相)とは肉体の運動という言語で表され、肉体(質料)とは運動する肉体に他ならないからだ。だから、言葉と言葉を接続しようとする間に不在が発見=形成されるのと同じく、肉体の部位、例えば肩口と、通常は接続しているとみなされる別の部位、例えば二の腕、は、新たに再配列され、再統合されようとしながら、そのような静的な統合を拒否し、そこに「不在」を作り出す。不在であるが故に、ダンサー自身さえ想定できなかった新奇な肉体の運動が、不在に飛び込んで来る。それこそが、ダンサーの作り出す「自由な身体」なのである。
言葉の接続に見出される不在と、肉体の接続に見出される不在、すなわち、自由な言葉と自由な身体は、一見統制が取れ、発話のフォーメーションや、ダンスのフォーメンションを見せながら、梅若召喚の儀式を続ける。舞台全体が暗くなり、垂れ幕がオレンジ色に輝きだすと、「80年代の鈴木清順に蟹が出る」と言われ、「蟹が出るから、梅若が現れるのか」と続く。東京の消費と蓄積、東京の中でも多くのものが流れ着く、墨田に発せられる言葉は、自由な言葉であるからこそ、一見統制が取れながら、突然の叫びや苦悶に開かれている。それは運動の向きを揃え、隊列を組んだ動きをしながら、それを覆す動きに開かれた、兵隊ガニと同じ運動に違いない。
それはやがて、言葉とダンスのフォーメーションを成していく。セバスチャンの独白と軟体動物化した節足動物のような動きから、やがて千昌と港平のダンスがシンクロしていき、港平とSHIonのシンクロ、千昌と未奈のシンクロへと続き、いつの間にか全員のシンクロダンスへとなだれ込んでいく。
- 山﨑広太(2026)『梅若はまだ帰らない。〈戯曲ダンス版〉』[舞台作品]。振付・脚本:山﨑広太、音楽:内橋和久。すみだパークシアター倉、2026年9月4–6日. 筆者が鑑賞したのは9月6日である。Back
- 環境省(刊年不詳)「玄武洞公園」『山陰海岸国立公園 国立公園ならではの魅力・体験』。https://www.env.go.jp/nature/nationalparks/list/sanin-kaigan/try/course/02/(2026年10月12日参照)Back
- 豊岡市(2018)「豊岡のここに注目じゃ! 玄さんのふるさと玄武洞って?」。2018年5月22日更新。https://www.city.toyooka.lg.jp/shisei/kohokocho/koho/1002811/1002842.html(2026年10月12日参照)
Back - Gunji, Yukio-Pegio, Hisashi Murakami, Takenori Tomaru, and Vasileios Basios (2018). “Inverse Bayesian inference in swarming behaviour of soldier crabs.” Philosophical Transactions of the Royal Society A: Mathematical, Physical and Engineering Sciences, 376(2135), 20170370.ただし、この文献では、常に整列するのではなく、そこに認知的判断があることを強調している.Back
- Shakespeare, William (刊年不詳). Macbeth. Folger Shakespeare Library, digital text. https://www.folger.edu/explore/shakespeares-works/macbeth/read/(2026年10月12日参照)Back
- Nader, Karim, Glenn E. Schafe, and Joseph E. LeDoux (2000). “Fear memories require protein synthesis in the amygdala for reconsolidation after retrieval.” Nature, 406, 722–726. https://doi.org/10.1038/35021052. この文献ではラットにおける想起後の再固定化を扱っているが、カニも同様かは本来不明である.Back
- Bergson, Henri (1919). “Le souvenir du présent et la fausse reconnaissance.” L’Énergie spirituelle: Essais et conférences. Paris: Félix Alcan, pp. 117–161. https://fr.wikisource.org/wiki/L’Énergie_spirituelle/Chapitre_V. 先行研究としては文献を上げる。ただし、ベルグソンの唱える知覚と記憶の同時発生は、分離され区別されたものが同時に発生すると唱えるもので、本稿で言及するような非分離性、「もつれ(entanglement)」を想定するものではない。Back
- Cleary, Anne M., and Alexander B. Claxton (2018). “Déjà Vu: An Illusion of Prediction.” Psychological Science, 29(4), 635–644. ただしデジャブを時間の不在とする解釈は、本稿独自のものである。Back
- 鈴木清順(監督)(1980)『ツィゴイネルワイゼン』[映画]。Back
- 折口信夫(1967)『折口信夫全集 第24巻』中央公論社。所収「死者の書」(初出1939年)。Back
- 日本芸術文化振興会(刊年不詳)「隅田川」『ユネスコ無形文化遺産 芸能への誘い 能楽』。https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/play/noh5.html(2026年10月12日参照)Back
- Aristotle (1931). De Anima. Translated by J. A. Smith. In W. D. Ross (ed.), The Works of Aristotle Translated into English, Vol. 3. Oxford: Clarendon Press. https://www.yorku.ca/pclassic/Aristotle/De-anima/de-anima2.html(2026年10月12日参照)用語としての引用であるが、形相因を意図、作用因を形相と質料のインタフェースとする解釈は本稿独自の解釈である。Back
- Quay, Stephen, and Timothy Quay (directors) (1986). Street of Crocodiles [film]. United Kingdom. https://www.bfi.org.uk/film/1733b48a-d5db-502f-9d97-45b9a05d0567/street-of-crocodiles(2026年10月12日参照).「死んだ」ネジを装着されたことで腕を回転させる場面について、本稿では「不在」を失ったと解釈している。Back
- Turing, A. M. (1936–1937). “On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem.” Proceedings of the London Mathematical Society, Series 2, 42, 230–265. https://doi.org/10.1112/plms/s2-42.1.230. ここで提案されている概念は計算可能性の定式化であり、本来は思考の独立性まで踏み混むものではない。しかしチューリングの提案のモチベーションは思考の形式化にあり、その意味で思考の独立性が念頭にあると考えられる。Back
- Kleene, S. C. (1936). “General recursive functions of natural numbers.” Mathematische Annalen, 112, 727–742. https://doi.org/10.1007/BF01565439. 帰納関数とチューリング機械は独立に提案されたが、現在では互いに同値であることが示されている。Back
- Chomsky, Noam (1957). Syntactic Structures. The Hague: Mouton. https://doi.org/10.1515/9783112316009. 統語法の意味からの自律性を支持するものではあるが、「現実と無関係な言語」とまで断定するものではない。Back
- Wittgenstein, Ludwig (1953). Philosophical Investigations. Translated by G. E. M. Anscombe. Oxford: Basil Blackwell.Back
- Austin, J. L. (1975 [1962]). How to Do Things with Words: The William James Lectures Delivered at Harvard University in 1955. 2nd ed. Edited by J. O. Urmson and Marina Sbisà. Oxford: Clarendon Press. https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780198245537.001.0001Back
- Searle, John R. (1969). Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. Cambridge: Cambridge University Press. https://doi.org/10.1017/CBO9781139173438Back






