梅若の不在から始まる普遍的不在の開設|2
Text|郡司ぺギオ幸夫(生命基礎論)
4.「不在」の固有性から「不在」の普遍性へ
シンクロしていたダンサー達は、走り回って退場し、千昌ひとり残り独白を始める。他の全員もいつの間にか舞台に現れ、周囲でスローなシンクロを始める。ここへきて、ダンサーは一列に並び梅若に関する簡単な説明をする。
未奈のみ残る。新聞紙がまとわりついている。暗転、みんなが四つん這いになっている。未奈は白板に何かを描き続けている。誰かの声がする「不在はいかにして現在の中で、生成し続けるのか」、「自分自身の必然性が危うい」、そばに寄りかかり、たたずんでみる。いつの間にか音楽もラップ風となり、ラップが始まる。
プリンス&レボリューションの気だるげな群舞(それはつまり、When doves cry[*1]のPVにおける終焉部分だ)、それに合わせて、各々がラップで謳う。千昌→港平→セバスチャン→未奈→Shion、またも、千昌→港平→千昌→Shion→セバスチャン→千昌(咆哮)→未奈→千昌→未奈→Shion(咆哮)→港平→Shion→セバスチャン→未奈→Shion→セバスチャン→未奈(咆哮)→… うたうもの以外は皆シンクロして奇妙なドラムの音に合わせて踊り続ける。
各ダンサーは、まさに、自分自身の必然性の危うさを謳っている。自分自身、あるがままでいたい。しかし「私」のあるがままなど、私は把握しているのだろうか。あるがままの「私」を、なんらかの表現で示したところで、自分でも気づかなかった私の振る舞い、私の感覚が、突然溢れ出す。その潜在性を包摂しない限り、「私」ではない。では潜在する私は、結果的に私の内部に現れる以前、「私」なのだろうか。それが何であるか措定できない以上、それが「私」であるか否かなど、それ以前の問題である。「私」であるか、と問うことすらできない。
出現している「私」、結果的に顕在化している「私」は、括弧付きの当座のものであれ、私の一部であると言っていいのだろうか。しかしその痕跡は、私なのだろうか。私の影は、建物の壁に落とされるが、そこにあるのは建物の壁であって、私ではない。私が雪の上につけた足跡は、雪の上にあるだけで、そこをいくら調べても雪があるだけだ。出現している「私」、私の痕跡とはそのようなものではないのか。だから、「私」が現にここに存在し、それについて疑いがないと信じている「私」を、その存在に関して論証しようとする限り、その不可能性に突き当たる。
第一に、「私」の存在の不可能性、存在の危うさから、では「梅若」とは誰なのか、という問題が生じる。自明だと信じて疑っていなかった「私」においてすら、その自明性は失われた。では梅若はどうか。梅若についてなど、自分のこと以上に何も知らず、まさに断片、痕跡しか知らない。にもかかわらず、そのよく知らない「梅若」を待つとはどういうことなのか。我々は、そして召喚の儀式を行うダンサーたちにとって梅若の「不在」は、意味を持つのだろうか。なぜなら「不在」は、個別の者・物が、現に今ここにいないことによって意味を持つ。小学校の教室で、生徒の席は決まっている。誰もが毎日同じ席につく。だからこそ、空いている席を見つけた時、○○君が不在だ、と気づくことができる。つまり不在とは、特定できる者・物が現にいないことであり、個別的現象である。翻って、「私」の自明性を失い、主体の危うさを謳うダンサー達は、もはや梅若の存在さえ自明ではないと感じるに違いない。では梅若の不在とは、何の不在なのか。いやむしろ、「不在」が成立するのか。この問題は、第二の含意の後に論じるべき問題であろう。
第二に、「私」の存在の不可能性、存在の危うさは、私と無関係なのではないか、という問題が生じる。私とは何なのか、を論証しようというのは、客観的な三人称の記述である。しかし、現にここにいて、自由に動き回る私は、何であるか、どうして動けるのか、なぜ動くのか、とは無関係に動き回ることができる。それは「私」の立場、一人称の立場である。私の世界も私も、徹底して一人称であり、三人称とは無縁だ。私を論証しようというのは、一人称を三人称の中に埋め込もうという話で、人称性に関する混同、誤謬を起こしている。三人称化された一人称は、「私」とは全く関係がないのではないか。だとすると、「私」の存在の不可能性、存在の危うさは、誤った判断であり偽の感覚なのではないか。
同時にこうも思われる。一人称と三人称との混同が誤謬である、というためには、三人称的枠組みが、一人称と分離、独立であることを前提とすることになる。論証は言葉でなされるのであるから、それが三人称的で一人称と分離独立である、と言うなら、「言葉は一人称的世界と分離されている」と言わざるを得ない。すると、「我々は、他人とのコミュニケーションを可能とする「言葉」を使っている。言葉自体は、記号であり、客観的事物であるからこそ、使えるもので、三人称世界の従属物である」と主張することになる。それは言語が、現実と独立な自立的存在と考えることではないか。だとすると、この前提もまた誤っており、「存在の危うさは、誤った判断である」とする判断の根拠も誤っていることになる。
我々は、一人称とは独立だという三人称の特権性を、言語行為論とは無関係に信じているのだろうか。それは言語を、現実世界から独立した、自立したシステムと信じることに直接、繋がっていくに違いない。前の節で述べたように、言語の自立性は、言語行為論や言語哲学によって異を唱えられている[*2][*3][*4]。とはいえ使用される記号としての言語自体は、自分が生まれる前から既にあり、「私」なら誰しも、レディメイドの言語を学習するだけではないのか、と思える。その記号としての言語、使用される以前の言語は、抽象的で理念的な記号であり、三人称的と考えることは自然であると思われる。そしてまた、言語が使われる現実世界とは、使用する「私」における現実世界であり、一人称的世界であると思われる。ただし、言語の外部に広がる現実世界は、誰もが共有する公共的なもので、いわば任意の一人称に開かれていると言えるだろう。「私」が言葉を使用するとき、三人称の記号と一人称の現実の接触によって「言語の使用」が実現される、と言うなら、言語が行為遂行的であることと、一人称と三人称を区別しながらその混同を批判することは両立する。それでいいように思われる。果たしてそうだろうか。
中学時代の友人、S君は少しばかり奇妙なところがあった。学校で教える科目の勉強は嫌いだったが、太平洋戦争時の日本の軍艦に関しては異常に詳しく、授業中にもかかわらず、「重巡洋艦、妙高、主砲、五十口径連装砲五基十門、対空砲、十二センチ単装高角砲六基六門、…」など、一人、小声で呟いている。面白くて近くから囃し立てると、興奮して声が大きくなり、椅子から立ち上がってしまう。「何をやってるんだ、バカもの」と先生に怒鳴られることも度々だった。お互いの家に遊びに行くほどの仲で、卒業して一週間ほど経った頃、街で出会った。彼は歩道に座り込んでいた。「おい、Sじゃないか、何してるの」と声をかけると、「あなたは誰ですか、何で声をかけるのですか」と言う。顔をまじまじと見ても間違いなくS君である。「何を言ってるの、お前、Sだろ、俺だよ、郡司だよ」と言っても、「確かに私はSですが、あなたのことなど知りません、何ですか、あなたは」と気色ばんでくる。その時、私は、ああそうなのか、と思った。私が記憶している「あのS君」も、怒っている「このS君」もおそらく共に「S君」であるが、同時に「S君」自体とは、いつどう変化するかわからない可能性を包摂し、「あのS君」でも「このS君」でもない、個別に回収しきれない抽象的存在なのだ、と思ったのである。それこそ「S君」という言葉の使用を私が理解し、「S君」という記号にリアリティを持たせて使用できた瞬間だったのだ。この「S君」こそが三人称的記号なのではないか。
もちろん、これは固有名に特有の問題ではない。一人称的に経験される「この××」、「あの××」を全て満たしながら、その全体では「ない」ことで見出される「不在」に、「××」は改めて発見=発明される。言葉を覚え、言葉のリアリティを感じながら使用できるようになる、とはそういうことだろう。三人称的なレディメイドと思われた「××」は、こうして一人称的経験を通し、「不在」の発見から記号のリアリティを召喚するという体験(この時初めて、単なる経験ではなく、体験となる)によって、三人称と接続する。それは外部に開かれるからこそ使用できるのであり、だからこそ、「××」自体は、何も指し示さず、強いて言うなら「××」自体しか指し示さない。だから抽象であり、記号なのである。そしてまさに、その記号の三人称性は、一人称的体験がもたらす「不在」を通して初めて生成=獲得される。
ここまでくると「梅若の不在」が何であるか、理解できるようになるが、その前にもう一つ補助線を引いておこう。
私は、通勤に地下鉄を利用している。漫然と乗っていても、いつも乗る地下鉄にリアリティを感じている。私は若い頃、全てのものからリアリティが失われた経験があるので、リアリティがあるという感覚が、感覚喪失の否定形としてよく理解できるのである。あるとき、家から大学に向かう地下鉄に乗りながら、逆にこの列車が、大学から家に向かう列車なのだと想像してみた。ホームに滑り込んでいく風景や、ホームから遠ざかっていく風景は全て、逆向きのものと感じることができ、東側に面しているはずのホームが、西側に面しているように感じられる。現に座っている席は、大学に向かう時とは通路を挟んで対面側の席だと感じることができ、「家方面に向かう列車」という違和感のような不思議なリアリティを感じることができる。そしてまた、逆に、大学に向かう列車であると思い直すと、「大学方面に向かう列車」のリアリティが、先ほど漫然とただ乗っていた列車のリアリティとは全く異なる、やはり奇妙な違和感を伴うことに気づくのである。「家方面に向かう列車」、「大学方面に向かう列車」の想像を、しばらく交互に繰り返してみると、そのリアリティには再現性があり、同時に、漫然と乗る列車のリアリティが、そのいずれでもないことを明確に感じるのである。漫然と乗っているという地下鉄のリアリティは、改めて発見=発明される「××」と同じく、個別的で具体的地下鉄の全てを包摂しようとしながら、その全てを無効にした形で、(単に乗る)地下鉄として発見=発明されるのだ。それもまた、個別性を排除していることによって記号であり、三人称なのである。
すなわち、三人称は、一人称と独立に予め存在するわけではない。一人称の体験を通して初めて、記号として生成=獲得されるからこそ、リアリティを伴う三人称となり、それ自体は空虚な記号となるのである。だから、予め存在する一人称と三人称の接触によって「言葉の使用」が実現されるのではない。一人称と三人称は徹底的に異質である。一方は曖昧な主観性に満ち、他方は客観的で意味を有したとしても有限で確定され曖昧さを持たない。そう思われる。だから、両者は独立に存在すると信じられてしまう。しかし、一人称における「この一人称的経験」、「あの一人称的経験」を包摂しながら否定し、一人称の「不在」を体験することで生成=獲得される三人称は、不在を通して一人称と連続しているのだ。
「不在」を通して連続している。それこそが外部からもたらされる生成の実相であり、一人称と三人称の関係である。だから両者は独立に存在するわけではないが、同時に、三人称は、一人称とは徹底して異質なものとして生成されることになる。一人称と三人称が独立に存在するから両者の混同に違和感を感じるのではない。両者は連続しているものでありながら徹底して異質なものであるから、その混同に違和感を感じる。それは決して誤った判断でも、偽の感覚でもない。
以上の考察を通して、「梅若の不在とは何なのか」、「梅若を待つとは何を待つことなのか」、に対する答えが見えてくる。第一に、梅若を実在した特定の個人とし、「不在」を個別的現象として考えるなら、「私」の論証不可能性と同じく「梅若」の論証不可能性に陥る。しかし、我々は常に一人称の「私」として「不在」を立ち上げていくのだから、そのような三人称的論証不可能性を気にする必要はない。各々の「私」は、一人称的に「不在」を立ち上げるのであるから。第二に、と同時に、我々が召喚する「梅若」は、具体的で個別的な梅若なのではなく、抽象的記号、まさにその意味で三人称としての「梅若」なのである。それは解体された後に獲得される「私」と同じく三人称の記号であり、使用することで初めて真のリアリティを獲得するに至る、各々の言葉と同じく三人称の記号なのである。逆説的であるが、三人称の純粋な記号あり、それ自体以外を指し示すことができない、抽象的点であるからこそ、任意のリアリティに開かれているのである。そして、一人称的体験を通して、「不在」を介して獲得されるからこそ、三人称にリアリティを持つことが実感されるのである。
梅若を待つとは、我々一人ひとりが、各々の一人称的立場で想像する梅若から出発して、普遍的梅若=三人称を召喚すべく「不在」を形成することなのである。
- Prince and the Revolution (1984). “When Doves Cry” [music video]. Directed by Prince. https://www.youtube.com/watch?v=UG3VcCAlUgE(2026年10月12日参照)Back
- Wittgenstein, Ludwig (1953). Philosophical Investigations. Translated by G. E. M. Anscombe. Oxford: Basil Blackwell.Back
- Austin, J. L. (1975 [1962]). How to Do Things with Words: The William James Lectures Delivered at Harvard University in 1955. 2nd ed. Edited by J. O. Urmson and Marina Sbisà. Oxford: Clarendon Press. https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780198245537.001.0001Back
- Searle, John R. (1969). Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. Cambridge: Cambridge University Press. https://doi.org/10.1017/CBO9781139173438Back




